2013-05-26

魚は痛みを感じるか?



ヴィクトリア・ブレイスウェイト『魚は痛みを感じるか

期待しないで読んだが予想よりはるかに面白い本だった。魚は痛みを感じるかって?どーだっていいよ、という人ほど面白いんではないかと思う。というのは、私が面白いと思ったのは、この設問そのものよりもむしろ、なぜこんな設問が設定されるのか? なぜその設問が大事なのか? という、もっと背景的な部分だからだ。……まあぼくが不勉強でよく知らなかっただけかもしれないが……。

本書はイギリス人の研究者が、魚が苦痛を感じる能力があるかどうかという研究を一般向けにまとめた本だ。

苦痛、というのは主観的な感覚なので、実験的に確かめるのは難しい。痛覚刺激を与えると反応が生じるのは生物としては当たり前だが、これが反射にすぎないのか、それとも実際に苦しみを感じているのか、というのは区別されるべきだと著者はいう。だが、痛みに反応するのと苦しんでいるという主観はどう区別し、確認すればいいのか? そんなことは確認できるんだろうか? 実際のところ、ほかの動物でも苦痛を感じる能力の有無についての研究というものはあり、それを応用することで魚に対しても実験はできる。この実験の設定方法や、なぜそれで苦痛を感じるといえるのか、というあたりもけっこう面白いのだが……

いずれにせよ著者は結論づける。魚は痛みを感じる。

……で? というのがこの本の面白いところだ。

そもそも問題は動物愛護に立ち戻る。動物愛護の思想的背景について自分はまったく無知だったので、素朴な動物愛護観はわかるものの、それ以上のものは何もなかったという状態。だから、「魚は痛みを感じるか?」という問題設定そのものがピンときていなかったわけだ。

動物愛護の思想的な支柱となるのはなんだろうか? ぼくにはよくわからないが、著者によればそのひとつは、動物も人間と同じように苦痛を感じる能力があることだという。不当に動物を苦しめるのはよくない。だから家畜といっても非人道的な扱いはよくないし、闘牛や闘鶏のような行為は不当に苦しめる虐待にあたるのだという理論展開ができる。なるほど、家畜の屠殺などでも、苦痛を感じないように気絶させてから処理するという話もあるし、こういう部分の根っこは同じなのだろうなと思う。

この辺は倫理の話だから正解はない。苦痛を感じるかどうかで判断すべきっていうのは本当にそうなのか?という疑問も大事だ。大事だが、この論理に筋が通っているのは確かだ。そして筋が通っているだけに、同じ論法が魚に当てはまるのかどうか、というのが大きな問題になる。そして少なくとも著者の言うところによると、イギリスでは魚は直感的には痛みを感じないとされている。あるいは、そう考える人がかなりいる。魚は実際に異質だし、共感するのは難しいかもしれない。だから、魚に何をしても、それを虐待だと考えるのが難しくなっているのだという。

つまり、魚が痛みを感じるのか?という設問は、魚は動物愛護の範疇になる生物なのか?という問題に行き着かざるをえない。魚が痛みを感じるのであれば、現在のようなトロール漁のような漁法には倫理的な問題があるかもしれないし、スポーツフィッシングにも問題があるかもしれない。実際、魚が痛みを感じるか、という内容の記事を新聞に寄稿したところ、釣り人たちから猛烈な反応があったのだという。スポーツハンティングが、やはり残酷であるといった理由で禁止されることもあるわけだからして、この反応は切実なものである。

余談だが、クジラは賢い動物だから……といった捕鯨反対運動の人の考え方も、考えてみるとこういう論理と近いものがあるのかもしれない。クジラは哺乳類で脳も大きく、苦痛を感じる能力があるが、魚は原始的だからない、という直感があるのであれば、海棲生物の保護についても、一本、わかりやすい線を引くことができる。

だが、著者は「そんな線はないんだよ」と示してしまった。著者はさらに、エビのような甲殻類も苦痛を感じることができるという。もう明快に線を引くことはできないかもしれない。ではジャイナ教徒みたいに、腕に止まる蚊の苦痛すら考慮に入れるべきなのか? でも、動物愛護ということ自体は間違ってないし、虐待というのは要するに苦痛を不必要に与えることだ、という前提は崩したくない。困った。というのが終章の議論となる。

はっきりいって、著者はきちんとした結論はくださない。せいぜいが、食べるためにとった魚は家畜と同じように苦しまないように殺すべきだとか、活け締めは一撃で殺すからましかもしれないとか、スポーツフィッシングにしてもかえしのない針のほうがいいだろうとか、そういう話だ。

だがいずれにせよ、著者の目的は結論を提示することではない。それは序章にもきちんと書いてある。議論をしましょう、という。著者の役割は、その議論の根拠となる事実を与えることだと。だから、読み終えても心にモヤモヤは残るのだが、それでも悪くない本だったと思う。

2013-05-24

藤井太洋『Gene Mapper -Full Build-』



ようやく読んだ。食わず嫌いは良くないね。面白かった。

この『Gene Mapper』の世界では、遺伝子レベルで様々な改変がもたらされた「蒸留穀物」がはびこる世界になっている。こうした穀物は二次不稔性をもっていて、つまり種を植えると(うまくすれば)実りを得るが、そこで得られた種を植えても次の世代は育たない。農家はマスターとなる種をつねに遺伝子を保有する企業から買わねばならず、企業が高い権限を持つ。

また、コンピュータプログラムの暴走によってインターネットは崩壊していて、別な世界が展開されている。いまのプログラマみたいな職業にあたるのが、遺伝子に様々な「コーディング」をすることで望の特性を与えるジーンマッパー、といった設定だ。

このディストピアめいた設定はパオロ・バチガルピの作品(『ねじまき少女』や「カロリーマン」「イエローカードマン」など)を思い起こされる。よく知らないけれど、影響がないとは思えない。「ねじまき」がタイが舞台なのに対して本書はベトナムが舞台になるし。

だが、読んでみれば、むしろ違いのほうが目立つはずだ。バチガルピは世界を陰気なディストピアとして描いていた。なおかつ、ローカス誌のインタビューで、自分の作品をディストピアだとよく言われるけど、実際にはむしろやわらげて描いている、といったニュアンスの発言をしていた記憶がある(オンラインには出てこないね……こういうときに捨ててしまったことが悔やまれる)。そういうペシミズムが通低音として響いている作品だ。いっぽうの藤井太洋は、世界をそれほどひどいもんじゃないように描いている。インターネットが崩壊するとか、通常の作物が育たなくなるとか、けっこうひどい大事件があったわりに、現代のぼくらの生活と案外かわらない生活が続いているようだ。

この雰囲気の差は決定的で、こうであるからこそ本書はこういう結末になるのだし、だからこそ本書は正しい、と思える。ともすると、ディストピアな世界像のほうがシリアスでちゃんとしている、といった印象を自分は抱きがちなのだけど、その直感は当てにはできない。本書は、こうであるからこそ価値があるのだ、と思った。

それにまあ実際のところ、世の中というか人々の暮らしっていうのは、案外とこんなものかもしれない。そのこととバチガルピの描く下層民や難民たちの描写と対立するものでもないだろう。

amazonのレビューを見るかぎり、当初出た -core- と、かなりの分量が書き足され早川書房で編集された -full build- はかなり違う内容のようだ。ぼくが読んだのは full build のほうで、読んでいてもなんの違和感もないし、エンターテイメントとして瑕疵は見当たらない。 -core- はその辺が荒削りであるようで、その魅力もあるのかもしれないが、さすがに読み比べるほどの気力はないかなあ。