2013-12-29

六冬和生『みずは無間』。もっと「SF設定」が必要


六冬和生『みずは無間』を読んだ。

第一回ハヤカワSFコンテスト受賞作、著者にとってもデビュー作であるような本書をけなすのはいかがなものかという向きもあるかもしれないが、個人的には本書はまったく受けつけなかった。

人格を転移して深宇宙を飛ぶ探査船となった主人公を語り手とした小説。自らの分身を作ってばらまいたり、はたまた独自の情報生命体を進化させてばらまいたり、その行く末の者たちとふたたび邂逅したり、といった独白から、主人公や人類の行く末、来し方が語られる。そこには、主人公の元恋人であったみずはが影を落とす……。

のだが。

自分はきわめて偏った読み方をしていると思う。が、ぼくは、読んでいて、とにかくこの本のディティールが気になって仕方なかった。著者は何を考えてこういう描写を書いたのかがさっぱりわからないのだ。

のっけから、漢字2文字の単語を「4バイト」と表現したりするところでのけぞった(こんな未来なのにUTF-16を使ってるの? まさかJISのコード体系はありえないよね)。それから、ごく序盤に出てくるフォン・ノイマン・アーキテクチャについては著者は完全に間違って理解している。

こうした間違いは瑣末なものだ。だが、それから先の展開についてはどうだろう。たとえば情報生命体にとって「切り刻まれ」あるいは「解剖される」とはどういうことなのか? 「食われる」とは? 著者は「情報」という言葉をどういう概念として捉えているのか? Dたちは、集合的な知性なのか、それとも個別集団がいて主人公とは代表者がコンタクトしているということなのか? 集合的な知性であれば、それが分派するとはどういうことか?

著者は、こういった言葉を、とくに深い考えもなしに書き連ねている。と、ぼくは読んでいて思った。

他にも気になることがある。たとえば身体的な比喩として、電位が云々、といった言葉が出てくる。それってつまり、主人公は電気で動くコンピュータなの? でも量子コンピュータだし、ナノマシン集合体みたいな感じになって形態や密度を変化できるよね? 粒子同士はどうやって相互作用し、形態を維持している? 粒子同士はどうやって通信している? 電位ということは、電波で通信しているのかな? だとすると、実態としてさしわたし1AU以上もあるようだけど、そうすると端から端まで情報が行き渡るまで8分とか10分とかかかってしまう。であれば、極めてゆっくりした反応を示す(数秒で考えることなど出来はしない)知性でなければ、おかしい。それとも周辺部はセンサであって、知性は適当な中核に宿っているのだろうか? 周辺部にはサブ意識のようなものがあって自律的に動作しつつ、それらを統合したものとして主人公があるんだろうか? だとするとそのような意識は、このような物語を語れるような存在なんだろうか?

細かい設定のひとつひとつについて言えば、説明なんてなんでもいいのだ。未知のフリーエネルギーでもいいし、なんか超光速通信でもいい。でも著者は、そういうディティールをすっぱり無視しているんじゃないか。そして、こういうディティールを積み上げていくと、この物語を成り立たせているものであるところの「登場するキャラクターたちのあり方」「行動が持つ意味」「コミュニケーションの取り方」などがまったく変わってしまう。それなのに、著者はそういうところに気を払わないで、不用意に電位とかAUのような述語や、「切り刻む」とか「食う」といった単純な表現を適当にちりばめてしまっている。

なので、ぼくとしては、ようするに著者は、そういう設定はなんも考えてないんじゃないか?と断定して読んだ。そしてそこが引っかかってしまってどうしようもなくなってしまった。

この本は、グレッグ・イーガン、特に『ディアスポラと比較されているようだ。確かに表層的な設定は似ているところがある。だが本質的には全く違う。

『ディアスポラ』の最初の章などは、大森望による解説ですら「わからない場合は読み飛ばすべし」などと書いてあるようなものだが、ぼくにはあれはわかる。でも、あれが万人向けだとはとても思わないし、読者がよんでまったく意味がわからなくても、読み手としては何の問題もない。イーガンの本を読む際に、扱われている題材を理解すべきだ、とは思わない。

だが、すくなくとも書き手であるイーガンのほうは、ああいう事柄を理解して書いている。もしかしたらその理解が間違っているかもしれないけれど、少なくとも自分がどういうことを書いているかということを把握して書いている。飾りじゃないのだ。

「ボーダーガード」という短編には量子サッカーというスポーツが出てくる。これが、読んでも「なるほどわからん」というものなのだが、実はイーガンのサイトで擬似的なものを遊ぶことができる(Javaアプレットで書かれてるのでぼくの手元の環境だと動かないけど……)。そして遊んでも「なるほどわからん」となる。だが、イーガンは自分でそういうゲームを作れるぐらいには「これがどういうものであるか」ということを把握しているということだ。読んでいてもそこは伝わる(読んでわからないのは「ほんとにそれ面白いの?」というところかもしれない)。

翻って本書で著者がやっていることは、そうした設定を深く考えることなしに、なんとなくかっこよさげな単語を貼り付けてハッタリをかましているだけのように思える。そこが個人的にはつらいポイントだった。

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さて、このような批判を書くと、次のような反論が想像される。第一に、SFとはそういうふうにどこまでも考えぬいて書くようなものなのか? そんな原理主義的な読み方は硬直的ではないか? というもの。第二に、本書の核心はそのようなところにはないのだから、どうだっていいじゃないか? というもの。

実はその点については異論はないのだが、少しこちらの側の言い分を書いておく。

第一に、設定が曖昧でふわふわしたSFなどいくらでもあるのは確かである。でもだからといって、上で書いたようなディティールはただの難癖だろうとも思わない。確かに硬直的かもしれないが、そういうのは程度問題かなと思っている。

たとえば、こないだ読んだ小川一水の『コロロギ岳から木星トロヤへ』はとてもいい作品だった。この作品には「時間を移動するかわりに空間方向の移動に制限のある知的生命」というのが登場して地球人類と邂逅するのだが、この知的生命体の異質さの表現はかなりたくみである。小川一水がどこまで深く考えていたかはよくわからないし、仔細に検討すると矛盾もありそうな気もしないでもないが、読んでいる間にひっかかりを覚えることなく、その異質さを代表するようなシーンを組み込むことで、無駄なく丁寧に表現できている。それがただのハッタリだったとしても、ハッタリ力が高いので読者は楽しんで読むことができるということだ。

これもまた程度問題というやつでしかない。ぼく以上に詳細が気になる人は「コロロギ」もダメかもしれない。だけども、やはりぼくとしては本書のハッタリ力はきわめて脆弱であったと言いたくなる。

第二の点についてはまったくその通りで、正直なところこういったディティールはこの本の核心ではないのは確かだろうと思う(なのではじめに「偏った読み方」だと逃げを打っておいたわけだけど)。それはそうなのだけど、でも、そうであれば、どうしてこういう設定にしてしまったのか?とぼくは思ってしまう。

宇宙探査機、量子コンピュータ、ナノ粒子、情報生命体、などなどの要素は著者がわざわざ持ち出してきたディティールである。だから、それなりのハッタリ力をもってこういうディティールを押し通してほしいと思う。そして上に書いたとおり、細かい設定を考えていくと、描写されているシーンの成り立ちや展開や描写にも影響は出てくるはずで、そういうことを考えるのもSFの味というやつではないかと思う。

SFアニメとかに「SF設定」という役職の人がいる。アニメなんかだと、脚本家とかがストーリーを考えていくわけだが、そのストーリーの根拠となる設定部分を考えるのがSF設定だ。脚本家やスタッフが「こういうストーリーにしたいんだが設定を考えてくれ」という感じで下支えする根拠をひねり出していく仕事であるようだ。

そういう意味での「SF設定」が、本書は弱い。つまり、こういうストーリーをやる、設定のベースとしては、宇宙で人工知能の探査機にしたい、という基本コンセプトに対して、であればこういう設定ならこういう話になるんじゃないですか、という部分が弱く、結果的にディティールがひっかかることになったのではないか、と思う。

2013-12-25

年末休暇あれこれ

年末帰省ということで日本にいます。12月の24と25日は会社は休みでした。弊社はさらに23日もよくわからない理由で休みだったけど……。

この日は一般にはクリスマスということになっていて、社内的にもどうやらクリスマスという名目で休日になっています。街に出ても、お店の人や道行く人達に「メリークリスマス!」と挨拶されたりする日です。

が、もちろんクリスマスというのはキリスト教の祝日なので、他の宗教は関係がありません。ユダヤ教は同時期にハヌカーがあるのですが、ハヌカーの日が厳密に一致することはまれみたいですね。

そういうわけで、宗教的に中立色を出そうという意味合いからか、なんとなく曖昧に「ホリデー」と呼ばれることもあります。会社によっては、名目としてはこの「ホリデー」という語を使うこともあるかもしれません。「ハッピーホリデー!」という掛け声もあります。なお、空飛ぶスパゲッティモンスター教徒も、このあいまいな「ホリデー」は祝うことになっています。いずれにせよ、この日はわりと休日であるという慣習が存在しているので、それを維持するためにキリスト教徒以外は「クリスマス」という名称を使わなくても良いようにしている感じですね。

逆に、アメリカにおける年末年始の休暇のクライマックスはこのホリデーかなという感じです。いちおう大晦日と正月は休日になっていたし、年始の瞬間には花火を上げたりするけど、まあそれだけ。1月2日からふつうに仕事が始まります。まあそのまま休暇を入れている人も多いですけどね。

なお、東京オフィスはそういうことはなく、基本的には国民の祝日のみを休日としています。23日は天皇誕生日で休みだけれど、24-25日は平日ですね。「基本的には」としているのは、三が日などは普通に休みだけどこれって法定の祝日ではなく慣習だよね、的なこともあるからですが。

アメリカに行く前は、慣習を維持するために名前を捻り出すのってどうなのよしかもホリデーって一般名詞じゃねえかとか思ってたけど、まあ休めるのに文句はないし、俺キリスト教徒じゃねえしなって思ってもハッピーホリデー!って気兼ねなく言えるのは良いなと思ったことでした。

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余談ながら、中国人は年末年始のお休みはぜんぜんないですね。基本的には一月にある春節(旧正月)をちゃんとお祝いしてガッツリ休むけど、それ以外にはあまり興味はなさそう。アメリカに来ている人たちならホリデーを休んだり休暇も取るだろうけど、やっぱりメインは春節という印象があるなあ。中華系やベトナム系のレストランも、春節の週は休んじゃうことはけっこう多いですね。

むかし、中国のオフィスの人たちと仕事をしたことあったけど、マジで大晦日とかでもコードレビューが来たり返事が返ってきたりして、ほんと休みじゃないんだなーと感心したりしました。いやそれは個人の問題かも?

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まあなんかぐだぐだになったけど、Happy Holidays!

2013-12-23

「今日使われているプログラミング言語のほとんどは90年前後に誕生」ってほんとう?

「今日使われているプログラミング言語の多くは、なぜ1990年前後に誕生したものなのか」に関する一考察 http://d.hatena.ne.jp/kazuhooku/20131221/1387603305 という文章を読んだ。

内容をまとめると、90年ころからコンピュータのメモリコストが下がり、変な制限をつけなくても文字列を簡単に処理できるようになった、そういう新しい言語や処理系は文字列処理の優位性があるので今でも生き残って使われている、という仮説だ。

仮説構築としては面白いと思う。でも、いろいろ議論に穴があるんじゃないかなぁという気がしているのでちょっと事例を調べてみた。

C++。C with classesのはじまりは1979年で、1983年にC++という名前になる。90年前後ってのは全然ただしくない。ただ、このころのC++にはSTLは存在しなかったわけで、「文字列型」もなかった(のだと思う、知らないけど……)。となるとSTLの歴史も知っておく必要があるが、STLは92年ということで良いのかな? これは90年前後と言えると思う。

Objective-Cも登場は同じ1983年だ(↑には言及されていないけれど、iOSアプリを書くのに必要な本言語はまさに「今日使われている」だろう)。とはいえNeXT以前のObjective-Cがいったいどうなっていたのかはまったくわからない(たとえば、NeXT以前にNSStringがあるわけない)。NeXTの創業は85年だそうだが、NSStringなどのフレームワークが、いつどのように整備されていったのかはぼくは知らない。NeXTStepの発展の歴史をひもとけば、これが90年前後ということはかなりありえそう。

Java。Javaの登場は意外と新しく1995年だ。これは、90年前後と言うには振れ幅が広いんじゃないですかね……。Javaから名づけたJSも95年と同年だったのは知らなかった。

スクリプト言語類を見ていくと、Perlは87年、Pythonが90年、PHPとRubyが95年。あとLuaが93年。PHP/Rubyはけっこう新しいですね。これを「90年前後」と言うかなあ……。

以上は、昨今の業務において比較的メジャーな言語といえると思う。もちろんScalaやGoなどの新しい言語も「使われている」の範疇に入れていいと思うけれど、確かにこの辺の言語は生き延びている。

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もう少し視野を広げてみる。たとえばHaskellはどうだろう。「今日使われている」かはさておき(一部の特殊な世界では使われているが)、Haskellは文字列型を持たない言語だ。文字列とは単なる文字のリストであり、豊富なリストユーティリティを持つからいいじゃねえかという気もするけれども、やはりそれは違うだろう。そしてHaskellの登場は、じつはまさに90年だったりする。

ただHaskellの文字列型も、それじゃやっぱり不便だよねということでByteStringなどが整備されていったりしている。その現象が起きたのはここ数年……とまではいかなくても、00年代後半以降である。これはHaskellがそれなりに使われようとされはじめたということを意味している、のかもしれない。そうじゃないのかもしれないが。

同じようなパターンがErlangにも当てはまるかも。Erlangにも文字列型は存在せず、バイナリ列とか文字コードのリストとかしかなかったはずだ。Erlangは特殊な用途ではあるがずっと使われていた言語である。

あと、ぼくは全く知らないがAdaはどうなのだろう。どういう文字列ユーティリティがあるのかはよくわからないが、Adaは軍用として長く使われてきた実績があるはずである。ちなみに登場は83年。

いちおう言及しておくと、Lisp系の言語はシンボル処理が多かったのではないかと推測されるけれど、もちろん今では文字列型も含まれている。この辺がどういう時期に現れ、発展してきたものなのかはよく知らない。Scheme R3RS (86年)にはすでに文字列リテラルは存在していたし、簡単なユーティリティは存在していた。ただ、文字列の基本的な処理をまとめたSRFI-13は99年の登場となっている(というかSRFI自体がそのころに始まったものなので)。Common Lispの登場は86年だが、CLはそれ自体の由来からしてあんまり参考にならなさそう。

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以上、簡単に事例を積み上げてみたが、やっぱり「90年前後」というポイントにはムリがあるんじゃないかなぁ、というのが個人的な感想だ。だけど一方として、90年ぐらいからパーソナルコンピュータやワークステーションなどの上でのプログラミングでメモリとかを気にしなくても良くなってきた、というのは感覚的には理解できるわけで、その辺のすり合わせをどう持っていくかというのが気になるところかな。

Unixには、主に行志向の文字列処理ユーティリティ群が大量にあった。こういう奴らのストリーム処理に対して、メモリコストの低下から、もっと汎用的に処理ができるPerlのようなユーティリティが発達してきた。で、ワークステーションなどの管理に使われていた。そして、サーバサイドはいまだにUnixというかLinuxがメジャーで、そういうシステムではたいていの場合、文字列処理を多用する(設定ファイルとかはたいていテキストなので)。したがって、文字列処理が得意な処理系は有利だ、という仮説はあるかもしれない。

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最後に蛇足として、こういうことを考えるならついでに「では今現在、もしくは近年、実はコストが下がっていて、それによってプログラミングに変化が訪れているものは何か?」と考えてみるのも良いのではないかと思う。

いろんなテーマが考えられるだろうけれど、昨今の流行や新言語の雰囲気を考えるに、「メモリ非共有なマイクロスレッドによる並行実行処理」なんじゃないかと思う。マルチスレッドやマルチプロセスじたいはありふれているが、スレッドやプロセスというのは比較的重いモノであるという考え方から自由になり、「深く考えずに気軽にスレッドを作りまくって良い」というのは比較的新しいパラダイムだろうと思う(もちろん、むかしからErlangがそういう感じだったのだが……)。それでも最近の言語は、こういうものをうまく扱えることをウリにしているように思うのだった。

2013-12-20

本場の浮かれ電飾を鑑賞する

12月25日が近づき、家の外壁に電飾をよそおう「浮かれ電飾」の季節と相成りました。浮かれ電飾というのは大山顕氏の命名による、なんだか浮かれたクリスマス向け電飾のことです。

さてクリスマス電飾といえば、やはり本場はアメリカなんじゃないか。いやクリスマスの本場はさておき、こういう浮かれた電飾を施すとかアメリカっぽいじゃないですか。イメージだけで書いてるけど。ただぼくもアメリカの年末については(出張も含めて)それなりの回数を経験していますが、実はそんなにどこにでもあるようなものではありません。確かに、何軒かに一軒はなかなかの電飾が見られるのですが、街中がすごい浮かれてる、なんてことはありません。まあ、シリコンバレーは移民が多いしね、本場は別なのかもしれない。

と思っていたわけですが……。

どうやら地区によってイロイロらしい、という話のようなのでした。激しい地区は激しいらしい。せっかくなので、こっちの激しい地区にはなにが起きているのか、ちょっと見てみたいなあと思っていたところで友人に誘われたので行ってきました。
これは住宅だったのか?

さて、シリコンバレー近辺といってもいろんな市があるのですが、今日行ったのはサンカルロスというやや中途半端なところにある小さな市の、とある路地。ちなみに、こういう地区に住んでる人には電力代の補助とかも出るとのうわさを聞きました。すごいですねえ。
人間が住めるのかこれは

この路地に近づくにつれて電飾率が高まっていく(ぼくらの期待も高まっていく)わけですが、行ってびっくり、とにかく、どの家も例外なく電飾。しかもかなり激しい。歩いてると「あ、この家は地味だな」とか思ってしまうけれど、よく考えてみると普通に街中にあったら誰でも振り返るレベルの完成度です。いやここも普通の街中のはずなんですが。
これぐらいだと「ちょっと地味ですねー」という気分になってくる

あと驚いたのが、完璧に観光地化しているということ。車はじゃんじゃん通るし(住民ではない証拠に、人が乗ってて、見物できるようにゆっくり進んでる)、人数も物凄い。写真を撮ってる人は少なかったけどいなくもない。
ツリーの規模が本気だ

なかでも一番すごかったのは、超巨大なクリスマスツリー。何メートルあるのかわからん規模。そしてその脇にはちょっとした電飾コテージがあって、なかにサンタさん像がおられ、記念写真スポットになっていた。そして観光客が列をなしていた。えっと、これ住宅なんですよね……?
この電飾の向こうにサンタさんがいて記念写真を撮られまくっていた

ううーん、この辺に住んでる人って、この時期どう過ごしているんだろうか。などと不安になるレベルのにぎわい。だいたいは、窓から見える範囲に人間は見えなかったので、もしや別のところにバケーションにでも行っているのかとすら思ったけど、人影もなくはなかったので、やっぱり住んでるのかなあ。奥の方なら大丈夫なんだろうか。気合入ってるな……。

たまにちゃんとキリスト教っぽい装飾があるのも「本場」っぽいと言えるだろうか。
三賢人とか、そういえばそういう要素もあったなと

そんで改めて日本の「浮かれ電飾」をデイリーポータルZで振り返ると、いやいや日本のもすごいよなと感心しますね。「本場では電飾するもののようだ」という噂だけから作り上げた虚構のクリスマス電飾がかえって異常進化するという日本にありがちな……ごめん適当に書いた。
なぜカエルなのか意味は分からないが、かわいいので良い
さてそんなわけですが、観光客向けに「Bless our block and all of you」というメッセージを投げかけてくるあたり小粋だなぁと思いました。自分は無宗教なんであれですけど。
Happy Holiday!

2013-12-17

最近読んだ科学一般書2本。『右利きのヘビ仮説』『スズメ つかず・はなれず・二千年』。好対照

細将貴『右利きのヘビ仮説』(東海大学出版会)は、タイトルに惹かれるものがあって買った。ヘビで右利きって?とだれでも思う、よね?

実際には、カタツムリを食べるヘビと、カタツムリの右巻き・左巻きの話。あまりネタバレしすぎないように書くと(すでにしている気もするけど)ヘビの行動特性とカタツムリの独特な繁殖方式により、独特の共進化がうまれる、というもので、この話が実に面白い。読むとなるほど!と思う。生物系の学問にはまったくシロウトの自分にとっても、感心する内容が多かった。

ただ、残念ながら、本としての構成には疑問が残る。というのは、研究の話よりも、著者の研究者としての苦労話が多いからだ。

どこそこに行ってなんという人にあってこの人のおかげでこういう研究ができた、ここに行ったらこのフィールドワークがこれぐらい大変だった、実験をしようとしたら機材が高かった、実験してみたらこの機材は結局いらなかった、そういったエピソードがとにかく多い。著者も筆が達者で、こういうエピソードが面白くないかというと、そこそこ面白い。

でも、ぼくがこの本で読もうと思っているのは研究テーマの中身であって、研究者の苦労話ではないなあ、と読んでいてずっと思った。苦労話もちょびっと入っているとエッセンスとして効いてくると思うけれど、この本は苦労話パートが多すぎるかなと思う。本人として思い入れがあるのは、もちろん苦労したところなので、そこばっかり書いてしまう現象もよくわかるんだけどねえ……。

分量バランスの問題なので、大学出版なので編集パワーが強くなかったからかもしれないし、いっそ誰かサイエンスライターに書いてもらったほうが良かったかも、と思った。

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そういう意味では、三上修『スズメ つかず・はなれず・二千年』(岩波科学ライブラリー)はとても好対照をなしていた本だと言える。

スズメなんて超身近なありふれた鳥だ。裏表紙にも「ザ・普通の鳥」と書いてある。ところが、よく知っているようでいて実はけっこう曖昧なイメージのある鳥でもある。わかっていないことも実はいくらでもある。たとえば、スズメの巣はどこにある?とか。この本は、そういったことをユーモラスに描く。とりのなん子の挿絵や、著者の配偶者の描くイラストも、わりとふんわかしていてファンシー。

さらに、生物学的な要素だけではなく、日本人がスズメをどんなふうに見てきたかなど、人文科学的な側面にもちょっとだけ踏み込む。

スズメが減っているか減っていないのか?という話についても、きちんと説明してくれる。どれだけのことがわかっていて、過去どういう統計があって、そこからどういう推定をして、どういうことが言えるのか、ということを、逃げずに、概論だけは描く。そして大雑把に減っている、という結論を伝える。

一冊まるごとちゃんとスズメの話だけで、きちんと内容がもっている。題材はありふれていて、「なるほど!」というような強い感情は読んでいても出てこないけれど、ずーっとじんわり面白く、話題の尽きない感があるのだ。


2013-12-13

プログラマーとモケイ

プログラマーの仕事はモデラーに似ている、というたとえをふと思いつきました。

必要なものはだいたい揃っていて、とくに最近のキットは出来がいいから、素人が単にパーツを素組みしてもかなりの見栄えのものができてしまう。モデラーオワコン? いやいや、そんなことはない。

プロのモデラーは何が違うかというと、きちんと継ぎ目を消したり、形状を整えたり、ディティールを彫ったり盛ったり……そういうめんどくさくて地味な作業を確実に効率よくこなして作り上げていく。こういうディティールによって、全体的な印象が完全に変わる。やるとやらないのとでは天地の差。

こういう作業手順のひとつひとつは地味だし、実はそれほど難しいもんじゃなかったりする。だが、きちんと全部を、効率よくこなすということが大事。そういう作業スピードや生産性というのは大きい。あと、一部だけ妙に凝ってもだめで、全体的なバランスを考えつつ何をどこまでやるか、どこにどういうディティールを施すかが大事だし、そこにセンスが出てくる。

もちろん、必要なパーツが存在しないこともある。そんなときは、プラ版とかパイプから削りだしたりモールドしたりでパーツを自作することになる。そういうスキルもすごい大事。だけど、できた模型に対して、そういう自作パーツをどれぐらい使うかというと、まあほんのすこしだけ。ぜんぜん必要ない場合もある。必要ないならそのほうがいい。

みたいな話ってプログラマーみたいですねーと、ちょっと思ったり思わなかったり。

まあ、しょせんはたとえ話でありますし、っていうかオレ、モデラーのことぜんぜんしらねーので↑が完全に的外れだったりして。あとキット用のパーツ職人的な人もいるわけですが以下略。



次回は「プログラマーの仕事は料理人に似ている」です(嘘)。

2013-12-12

Nick Bilton "Hatching Twitter" ツイッター創業者たちの愛憎劇



Nick Bilton "Hatching Twitter: A true story of money, power, friendship, and betrayal" を読んだ。

タイトルは訳すなら『ツイッターの孵化』といったところだろうか。鳥がコーポレートアイデンティティであることにひっかけている。

ツイッターのはじまりから、ごく最近までにかけてを綿密な取材をもとに書き起こした本ということになるのだけど、この本の主体は、一癖も二癖もあるような創業者の面々だ。彼らとその周辺の人々が主な登場人物となって、その誕生から成功、さらに権力闘争などが語られる。

ツイッターのそもそものはじまりは、Odeoというポッドキャストの会社にある、と本書ははじめる。Bloggerが買収されて在籍してたGoogleをやめたエヴァン・ウィリアムズ(エヴ)は、ノア・グラスに誘われてOdeoを始める。

やがて、田舎から出てきたばかりの物静かな若者だったジャック・ドーシーや、同じくGoogleをやめたビズ・ストーンがOdeoに加わる。だが、 iTunes がポッドキャストのサポートをはじめるなど強い競合が多く、ポッドキャストのビジネスはうまくいかなくなる。そこで、ジャックのアイディアをもとにノアとジャックで最初期のツイッターが作られる。

だがやがてノアはいろいろ問題を起こし、エヴとジャックが画策して追い出されてしまう(そしてノアの名前はツイッターの歴史からほぼ見えなくなる)。一方、Odeoは本格的にうまくいかなくなったのでツイッターを会社として創業し、ジャックがそのCEOに就任。ツイッターはSouth by Southwestの受賞などで有名になり、どんどん成長していく。

だがジャックもまたツイッターの成長に沿った戦略が立てられず、問題視されてくる。ここは細かくは書かれないが、おそらくエヴの画策などをもとにジャックもまた追い出されてエヴがCEOになる。そしてテレビのトークショーに出たり、政治家も使い始めたり、イラン革命などツイッターは重要性をどんどん増していく。

だがさらにエヴにもまた、急拡大したツイッターをうまくまとめることができず、さらに追い出されたジャックも暗躍し、最終的にはエヴも追い出されてしまう……。

うーん、こうやってまとめるとひどい人たちだなぁ。読んでいても「こーゆー手合とは付き合いたくないな」とつくづく思うようなエピソードが多くてなかなかしんどい。良くも悪くも、少ない人数での濃い人間関係があって、そこに会社の急激な成功による権力関係が入り交じることによるめんどくさい愛憎劇、というのが本書の主題であろうと思う。


そういう意味で、会社としてのツイッターの成長や拡大はどちらかといえば脇に置かれている。イランの話、政治家が使い始めた話、ツイッターがどう使われてきたか、などなどのエピソードはまったく出てこない(追記2013/12/12 22:02:読み返してびっくり。この文章は間違い。下記に補足するけど、その辺の話は出てきます)。サイトがよく落ちてた、というのも言及されるが、それをどうするかというCEOの問題行動の描写として、やっぱり背景的に描かれている。

よくある技術の会社の本は、こういう問題があって、こういう奴が入ってきて解決されて、みたいなストーリーだったりする。プロジェクトXとかはまさにそう。ああいう感動的な物語を期待して読むとちょっと鼻白む。そういう話は一切ない。この本は、創業者たちの(ドロドロした)人間関係の物語なのだ。

(追記2013/12/12 22:02:で、上の追記の補足だが、イランの話や政治家の話などはかなり出てくる。オバマの話やメドヴェージェフ大統領が訪問した話も出てくる。だけど、ここで書きたかったのは、この本は創業者たちの物語なので、創業者と関わりの薄い事件は取り上げられていない、ということ。たとえば日本に関するエピソードはない。日本じたい、エヴが解任されようというときにビズが訪日中だった、というくだりでしか言及がない。ほかにもたとえば、ツイッターの機能といえば、140字の文字制限や、ハッシュタグの話は出てくるけれど、どういう機能がユーザが使っていくなかで発達してきたか、などの言及もほぼゼロ。まあ、そういう本だということです)

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本としては、かなり踏み込んで登場人物の心境をも描いているので、面白いとも言えるし小説とも言えるようなレベルのものもある。そういう意味では、ある種の脚色というか、事実に立脚した物語と言えるような部分もあるだろうと思う。それはそれで悪くない、というか、この本の主題を描くのに向いている。ノアの失脚のパラグラフなど、かなりぐっとくるのだ。
Noah didn't fight because he realized it wasn't power that he had been after when he started Odeo. More than fame and more than fortune, he had just wanted friends.
(拙訳:ノアは戦わなかった。というのも、自分がOdeoを始めたときに求めていたのは権力でなかったことがわかったからだ。名誉よりも幸運富よりも、彼は単に友だちが欲しかったのだ。)
そんなことまで言い切っていいの、と思うわけだが……また、ジャックの失脚やエヴの失脚でも、複数の場所で起こっていることを次々にカットバックしていくことで緊迫感と臨場感を出している。

どうでもいいけど、本書の著者はノア・グラスにはやさしいが(終章でも救いのある終わり方になっている)、ジャック・ドーシーにはとても手厳しい。カバーにある短い紹介でも「メディアに次なるスティーブ・ジョブスと思わせた」とか書いてあるし、終章もなんだかなあって感じだ。ジャックが追い出されたときはエヴが何をしたのかはあまり書かれていないが、エヴが追い出されたときのジャックの暗躍はいろいろと書いてある。

その辺は取材対象の偏りなどに起因する偏りなのかもしれない。

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が、いずれにせよ、お話としてはとても面白い。おすすめです。

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追記 2013/12/18 11:12 --- The Vergeによると、本書のテレビドラマ化が進行中らしい。読んでいても、このドラマチックさは映画っぽいなーとずっと思っていて、最近はやりの映画化も視野に入れているのかな、それにしては紆余曲折が長いかな、とは感じていたけれど、まさかのドラマ化でした。

2013-12-09

ギョウザを作る

自炊記録はだいたいいつもソーシャルメディアに流しておしまいなんだけど、気が向いたのでブログに書いておく。
日本風の焼きギョウザを作った。久々だったがけっこう上手くいってかなり満足。

作り方:

  1. 小麦粉と水で皮をこねる。小麦粉は中力粉、水またはぬるま湯が小麦粉の重量の半分より多いぐらい。某レシピ本によると小麦粉200gに対して水110g。
    • 水を数回に分けて回し入れて、適当にガンガンこねる。はじめは全然まとまってないが、力を込めて潰すと中から水が出てくるので、こねてるとそのうちくっつく。
    • ひと通りくっついたら丸めてラップにかけて10-20分ぐらい寝かせる。水を全体に行き渡らせる効果がある
  2. 皮のもとを寝かせている間に餡を作る
    • 肉は豚肉のミンチ。細切れ肉を買ってきて自分でミンチを作る流派もいるけど、まあ好き好きだと思う。エビとかを入れても美味しい
    • 白菜。適当な枚数をみじん切りにする。切ったものに少し塩をふっておき、肉と混ぜる直前に絞って水分を取るとよい
    • ほかの野菜もみじん切りにする。今回はめんどうなので、あとはニラのみ
    • 分量的には、肉より野菜が多いぐらいでちょうど良い
    • 肉、野菜、香辛料(今回はショウガ。チューブのを使った)を混ぜ、味付けをしておく。醤油、料理酒、ごま油など
  3. 皮のもとを取り出して適当に捏ねる。仕上がったら棒状に伸ばし、端から適当な長さで切っていく。切った玉を手のひらでつぶし、麺棒で伸ばして皮に整形する
  4. 包む
  5. 高温で焼く。底面に焼き色がついたらちょっと水を入れて蓋をし、蒸し焼き風にするといい感じになる
時間はそこそこかかるしめんどい作業(包むとか)が多いけど、工程じたいに難しいものはない。基本的には具材を何も考えずに微塵にして混ぜ、皮で包むだけ。ちなみに、皮はべつに市販のものでも充分美味しいと思うが、自分でこねたほうが楽しい。

ポイント:
  • 皮を自作する場合、やや厚めにしたほうが美味しい。というか市販の皮はけっこう薄く、そうとう力を込めて伸ばさないとあの薄さにはならない。ふつうに伸ばす程度にとどめる
  • 麺棒でのばしていくと綺麗な円形にならないことはよくある。があまり気にしなくても端の形状は包むとわりとわからなくなる
  • 包み方は人それぞれだと思うけど、まず前後の中心を持ち上げてくっつけて、そこから脇に向かってひだをつけながら、というやり方にしている。手前ではなく奥側にひだをつけると包みやすい。と、言葉で説明するのは難しい……
  • 餡はけっこうちゃんと味をつけてしまってよい。そのまま何もつけずに食ってもウマイように味付けをしておく
今度はミルクティ餃子も作ってみたいかも。