六冬和生『みずは無間』を読んだ。
第一回ハヤカワSFコンテスト受賞作、著者にとってもデビュー作であるような本書をけなすのはいかがなものかという向きもあるかもしれないが、個人的には本書はまったく受けつけなかった。
人格を転移して深宇宙を飛ぶ探査船となった主人公を語り手とした小説。自らの分身を作ってばらまいたり、はたまた独自の情報生命体を進化させてばらまいたり、その行く末の者たちとふたたび邂逅したり、といった独白から、主人公や人類の行く末、来し方が語られる。そこには、主人公の元恋人であったみずはが影を落とす……。
のだが。
自分はきわめて偏った読み方をしていると思う。が、ぼくは、読んでいて、とにかくこの本のディティールが気になって仕方なかった。著者は何を考えてこういう描写を書いたのかがさっぱりわからないのだ。
のっけから、漢字2文字の単語を「4バイト」と表現したりするところでのけぞった(こんな未来なのにUTF-16を使ってるの? まさかJISのコード体系はありえないよね)。それから、ごく序盤に出てくるフォン・ノイマン・アーキテクチャについては著者は完全に間違って理解している。
こうした間違いは瑣末なものだ。だが、それから先の展開についてはどうだろう。たとえば情報生命体にとって「切り刻まれ」あるいは「解剖される」とはどういうことなのか? 「食われる」とは? 著者は「情報」という言葉をどういう概念として捉えているのか? Dたちは、集合的な知性なのか、それとも個別集団がいて主人公とは代表者がコンタクトしているということなのか? 集合的な知性であれば、それが分派するとはどういうことか?
著者は、こういった言葉を、とくに深い考えもなしに書き連ねている。と、ぼくは読んでいて思った。
他にも気になることがある。たとえば身体的な比喩として、電位が云々、といった言葉が出てくる。それってつまり、主人公は電気で動くコンピュータなの? でも量子コンピュータだし、ナノマシン集合体みたいな感じになって形態や密度を変化できるよね? 粒子同士はどうやって相互作用し、形態を維持している? 粒子同士はどうやって通信している? 電位ということは、電波で通信しているのかな? だとすると、実態としてさしわたし1AU以上もあるようだけど、そうすると端から端まで情報が行き渡るまで8分とか10分とかかかってしまう。であれば、極めてゆっくりした反応を示す(数秒で考えることなど出来はしない)知性でなければ、おかしい。それとも周辺部はセンサであって、知性は適当な中核に宿っているのだろうか? 周辺部にはサブ意識のようなものがあって自律的に動作しつつ、それらを統合したものとして主人公があるんだろうか? だとするとそのような意識は、このような物語を語れるような存在なんだろうか?
細かい設定のひとつひとつについて言えば、説明なんてなんでもいいのだ。未知のフリーエネルギーでもいいし、なんか超光速通信でもいい。でも著者は、そういうディティールをすっぱり無視しているんじゃないか。そして、こういうディティールを積み上げていくと、この物語を成り立たせているものであるところの「登場するキャラクターたちのあり方」「行動が持つ意味」「コミュニケーションの取り方」などがまったく変わってしまう。それなのに、著者はそういうところに気を払わないで、不用意に電位とかAUのような述語や、「切り刻む」とか「食う」といった単純な表現を適当にちりばめてしまっている。
なので、ぼくとしては、ようするに著者は、そういう設定はなんも考えてないんじゃないか?と断定して読んだ。そしてそこが引っかかってしまってどうしようもなくなってしまった。
この本は、グレッグ・イーガン、特に『ディアスポラ』と比較されているようだ。確かに表層的な設定は似ているところがある。だが本質的には全く違う。
『ディアスポラ』の最初の章などは、大森望による解説ですら「わからない場合は読み飛ばすべし」などと書いてあるようなものだが、ぼくにはあれはわかる。でも、あれが万人向けだとはとても思わないし、読者がよんでまったく意味がわからなくても、読み手としては何の問題もない。イーガンの本を読む際に、扱われている題材を理解すべきだ、とは思わない。
だが、すくなくとも書き手であるイーガンのほうは、ああいう事柄を理解して書いている。もしかしたらその理解が間違っているかもしれないけれど、少なくとも自分がどういうことを書いているかということを把握して書いている。飾りじゃないのだ。
「ボーダーガード」という短編には量子サッカーというスポーツが出てくる。これが、読んでも「なるほどわからん」というものなのだが、実はイーガンのサイトで擬似的なものを遊ぶことができる(Javaアプレットで書かれてるのでぼくの手元の環境だと動かないけど……)。そして遊んでも「なるほどわからん」となる。だが、イーガンは自分でそういうゲームを作れるぐらいには「これがどういうものであるか」ということを把握しているということだ。読んでいてもそこは伝わる(読んでわからないのは「ほんとにそれ面白いの?」というところかもしれない)。
翻って本書で著者がやっていることは、そうした設定を深く考えることなしに、なんとなくかっこよさげな単語を貼り付けてハッタリをかましているだけのように思える。そこが個人的にはつらいポイントだった。
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さて、このような批判を書くと、次のような反論が想像される。第一に、SFとはそういうふうにどこまでも考えぬいて書くようなものなのか? そんな原理主義的な読み方は硬直的ではないか? というもの。第二に、本書の核心はそのようなところにはないのだから、どうだっていいじゃないか? というもの。
実はその点については異論はないのだが、少しこちらの側の言い分を書いておく。
第一に、設定が曖昧でふわふわしたSFなどいくらでもあるのは確かである。でもだからといって、上で書いたようなディティールはただの難癖だろうとも思わない。確かに硬直的かもしれないが、そういうのは程度問題かなと思っている。
たとえば、こないだ読んだ小川一水の『コロロギ岳から木星トロヤへ』はとてもいい作品だった。この作品には「時間を移動するかわりに空間方向の移動に制限のある知的生命」というのが登場して地球人類と邂逅するのだが、この知的生命体の異質さの表現はかなりたくみである。小川一水がどこまで深く考えていたかはよくわからないし、仔細に検討すると矛盾もありそうな気もしないでもないが、読んでいる間にひっかかりを覚えることなく、その異質さを代表するようなシーンを組み込むことで、無駄なく丁寧に表現できている。それがただのハッタリだったとしても、ハッタリ力が高いので読者は楽しんで読むことができるということだ。
これもまた程度問題というやつでしかない。ぼく以上に詳細が気になる人は「コロロギ」もダメかもしれない。だけども、やはりぼくとしては本書のハッタリ力はきわめて脆弱であったと言いたくなる。
第二の点についてはまったくその通りで、正直なところこういったディティールはこの本の核心ではないのは確かだろうと思う(なのではじめに「偏った読み方」だと逃げを打っておいたわけだけど)。それはそうなのだけど、でも、そうであれば、どうしてこういう設定にしてしまったのか?とぼくは思ってしまう。
宇宙探査機、量子コンピュータ、ナノ粒子、情報生命体、などなどの要素は著者がわざわざ持ち出してきたディティールである。だから、それなりのハッタリ力をもってこういうディティールを押し通してほしいと思う。そして上に書いたとおり、細かい設定を考えていくと、描写されているシーンの成り立ちや展開や描写にも影響は出てくるはずで、そういうことを考えるのもSFの味というやつではないかと思う。
SFアニメとかに「SF設定」という役職の人がいる。アニメなんかだと、脚本家とかがストーリーを考えていくわけだが、そのストーリーの根拠となる設定部分を考えるのがSF設定だ。脚本家やスタッフが「こういうストーリーにしたいんだが設定を考えてくれ」という感じで下支えする根拠をひねり出していく仕事であるようだ。
そういう意味での「SF設定」が、本書は弱い。つまり、こういうストーリーをやる、設定のベースとしては、宇宙で人工知能の探査機にしたい、という基本コンセプトに対して、であればこういう設定ならこういう話になるんじゃないですか、という部分が弱く、結果的にディティールがひっかかることになったのではないか、と思う。