2013-08-13

facebookの偽アカウントスパムの問題について

よく話には聞くけれども、僕にも来ました。友達の名前と同じ偽アカウント。比較的ありそうな名前であるので、実際に引っかかってしまった人もちらほらいました。

いい機会なので、この件についていろいろ考えてみました。

偽アカウントとは何か

いろいろ呼び方があるみたいですが、とりあえずここでは「偽アカウント」と呼んでいます。最近はほんと増えている気がするので、「ああ、あれね」とわかった人も多いんじゃないかとおもいますが。

たんに「偽」といえば、もちろん本人ではないということですが、ここでいう場合は(おそらく少数の)業者が何らかの理由で乱造しているアカウント群のことです。男性のしょうもない心理を利用するために、女性の名前を使っていて、多数の男性に無差別に友達申請を行なっていると考えられています。

「彼ら」をおそらく少数であるという推定をしているのは、手口がしだいに変化しているからです。

実際のところ、偽アカウント自体はけっこう前からありました。とはいえ、わかりやすいのは架空の女性を名乗って男性を釣る「釣りアカウント」のようなものだったとおもいます。もっと最近になっての例としては、当初「彼ら」は適当な女性の写真(ネットアイドルや、そういう写真サイトなどから拾ってきたもの)を使っていました。また、同姓同名のアカウントを大量に使っていました(たとえば→この記事は2012年9月でした。同姓同名同写真のまま大量に友達申請していたりしていました。そんな時期もありましたね……)。

今年に入ってから、若干の変化がありました。まず、アイコンに女性の写真を使うのをやめ、アニメや漫画のマスコットキャラなどのプロフィール写真に変わったようでした。また、性別は男性でした。

性別を男性としている理由については、異性への大量の友だち申請がfacebookによって規制されている、ないしはスパムの自動検出に引っかかりやすいからである、という説を目にしましたが、真偽は定かではありません。

また、いくつかの適当なfacebookページをlikeしていました。これも偽物ではない、という効果を高めるための施策であろうと思われます。

名前のバリエーションは増えました。↑のリンク先でも、ほんとうに同姓同名の人から多量のリクエストが来ていたものですが、そういうことはまずなくなりました(数日たったらだいたい忘れているのでかぶっているかもしれませんが)。私見ではありますが、姓と名のかなり大きなリストを持ち、組み合わせているのだろうと思います。

ここ1ヶ月ほどの変化としては、
  • facebookページをlikeするなどの偽装はやめた
  • プロフィール写真に手を入れるのはやめて、男性のデフォルト画像をそのまま使う
  • プロフィール情報を見せないようにして、性別等はわからないようにした
といったところです。おそらく実際に試してみて効果に差がなかったこと、最後の件については「女性の名前だが性別は男性」といった情報も広まっていたし、目に止まりやすかったということがあるのだろうと思います。

もっとも、こういうのはいたちごっこですから、手口は次第に変化していきます。以上は現時点での特徴です。

偽アカウントの友だち申請を許可すると何が問題か

さてそんな偽アカウントですが、何を目的としているのでしょうか。

一説にはアカウント乗っ取りがあると言います。facebookでは友達3人が協力すればアカウントの復帰に必要な手続きが取れる仕組みがあるため、こういう偽アカウントの友だち申請を3回承認しまえば、ほかのメールアドレスに切り替えてパスワード再設定、という組み合わせによってアカウントを奪うことができるというものです。

真偽はさておき、この場合は偽アカウントの問題はけっこう緩和されるといってもいいでしょう。うっかり友達申請しちゃった!といってもすぐアウトなわけではなくて、スリーストライクまではアウトになりません。とはいえ、うっかり間違えたらきちんと解除をしたりしないと、あとあとで問題が残る危険性があります。

もう一つの問題はプロフィール情報の奪取です。

といっても、ようするに「友だちのみ」に見せている情報が筒抜けになってしまう、という話です。自分でfacebookに登録しておいた情報の話ではありますが、プロフィールにはメールアドレスや電話番号、skypeのidなど様々な情報を載せることができます。友達にだけ教えているつもりが、スパマーには筒抜けになってしまっている、ということです。また、友達にタグ付けされたことがあれば写真も閲覧できるでしょう。

さらにいうと、公開範囲を「友達の友達」に設定している場合、自分だけが注意しても効果は特になく、自分の友達の誰かがこういうミスをした場合に流出することになります(たとえば、住んでいる市の名前など、それほどの被害はないかもしれないけれども個人に関わり、一般公開していない情報は、わりとこういう公開範囲にしてたりするかもしれません)。

わたし個人としては、後者の問題のほうが本来の狙いなのではないか、と思っています。思っていますが、いずれにせよこういった2つの問題があるということです。

偽アカウントの問題について僕らは何をすべきか

当たり前の話ですが、見ず知らず、しかもプロフィールに何も書かれてなくてどこの誰かもわからないような人からの友だち申請は断るべきだ、ということです。これは当然の原則です。

しかし、そうは言っても何らかの事情でそういうことに気づかず、間違って承認してしまうということはあります。これはまあ、気をつけて生活をしていてもそういう季節になれば一定の確率で風邪をひく、というようなものです。注意するのは大事ですが、間違いは必ず起こるということです。

間違って行った承認は、直ちに解除するのも大事です。ほっとくと忘れてしまいがちですし、そうなれば偽アカウントが溜まってしまい、乗っ取られる危険性があるかもしれません。また、友だち申請とその受理がどれぐらいの頻度で行われているかにもよりますが、承認をしてから解除するまでの時間が短いほど、個人情報を抜き取られる確率も、量も、(理論的には)下がります。

個人情報について気を使う場合は、電話番号やメールアドレスなど知られたくない情報は入れておかない、といった自衛策もあるかもしれません。電話番号やメールアドレス入れるのは、けっこう便利な場合もあるんですけどね……。

また、「友達の友達」までという公開範囲にはあまり意味はなく、スパマーには筒抜けになっていると考えたほうが良いでしょう。

偽アカウントからの友だち申請については、申請を削除するのが基本ですが、同時にアカウントを報告したほうが良いのではないか、と個人的には思っています。アカウントの報告については「偽アカウントである」という項目があります。本当のところ、絶対確実に偽なのか、というとゼロとは言い切れないよな……と思っていたのですが、実際問題としてあまりにも似た手口のアカウントが多数あるのは確実なので、まあ偽物と言い切って良いと思っています。

facebookのスパム報告の仕組みはわかりませんが、複数の人間から報告があった場合、少なくともアカウントの確認のような手続きはあることだろうと思います。そして、スパマーにとってはきちんとコミュニケーションを取るよりは別な偽アカウントを作ったほうがコストが低いため、たぶんそのまま偽アカウントは停止・削除ということになります。

偶然の一致についてどうすればいいのか

以上の内容は偽アカウントはなんらかの業者が大量作成しているアカウントである、というところがポイントなのであり、実際のところ「なりすまし」かどうかというのはあまり関係はありません。

個人的には、意図的になりすましであることを狙っているわけではない、と思っています。多量の「日本人の姓にありそうな名前リスト」と「日本人女性にありそうな名前リスト」をランダムに組み合わせているのではないか、などと思っています(facebookのプロフィールから、そういう名前リストを取ってきている可能性はあるかも)。

なぜそう思うかというと、知り合いと同姓同名の偽アカウントから友達申請がきたな―、などと思っていたら、本人にも行っていた(笑)ということがわかったからです。なりすましを装うのであれば、少なくとも本人には行かないのではないでしょうか。

ただし、ランダム生成したものから「あれ、コイツfacebookはじめたのかな?」という勘違いが発生することを狙っているのだろう、とぼくは思っています。だから、まあ、なりすましといえばなりすましなのかもしれませんね。誰か一人が勘違いで友達申請を承認してしまうと「あいつが共通の友達なんだからこれは本物だ」という誤解が生じやすく、さらに問題は加速されることでしょう。

ぼくが問題に遭遇した場合、同姓同名の本物のほうとはすでに友達になっていました。なのでいちおう検索して友達として残っていることを確認できました。そうでない場合(しかもfacebookにアカウントを持っているかわからない場合)、確認は非常に困難であろうと思います。

でもまあその場合、いったん待ってみればいいんじゃないでしょうか。もしかしたらほんとうにfacebookのアカウントをつくりたてで、プロフィールが全然ないのかもしれません。でもそうだとすれば、数日もすれば少なくとも写真や、基本的な情報(性別など)は入ってくるはずです。何らかの投稿もするだろうし、なんらかの項目にはlikeしていくはずです。それを見れば本人かどうかの判断はつくでしょう。またもし、相手がそういうことをしない人であったとするならば、facebookのアカウントを作っては見たものの使う予定はないということなので、友達にならなかったとしても、とくになんの支障もないのではないでしょうか。

まあ、本当に気になるなら、別のチャネルから聞いてみれば良いと思いますけどね。メールとか、twitterのDMとか。

それにしても現状はどうにかならないのか

にしたって、現状がわかったところでうんざりさせられるところは変わりません。どうにかならんものでしょうか。

これってスパムメールと一緒だなーとつくづく思ったのは、善意によって成り立っているところに少数の不正利用によって問題が生じているということです(そういえばブルース・シュナイアーの Liars and outliers も似たようなテーマだったな)。あまりにもスパムが過剰になれば、みんなうんざりして使うのをやめたりして、結局スパマーには利益がないのですが、短期的には効果のある戦略だということです。

個人個人で注意しましょう、というのは大事なんですが、根本的な解決策とも言いがたいものがあります。

どうしたものか、どうにかなってくれるとありがたい、のですが、妙案があるわけでもなく、ぐちでおしまいなんですが、どうにかならんものですかねえ。

2013-07-25

『Team Geek』が面白い


Team Geek ―Googleのギークたちはいかにしてチームを作るのか

さっそく『Team Geek』読みました。200ページ程度と分量が多くなく、わりと気楽にさっくり読めます。しかしこれは面白い。

ソフトウェア開発のチームやプロジェクトなどの運営にかかわるもろもろのエッセイ集、みたいなノリの本。内容はコーディングや実際の開発の細部には立ち入らず、むしろエンジニア同士の(あるいはエンジニアとエンドユーザの)関係のような「人間」にフォーカスを当てている。

いわく、ソフトウェア開発というのはチームプレイである。孤高の天才がひとりで作るようなモンじゃない。ユーザ=自分みたいなソフトウェアなら別だけれど、世間に広く使われるようなものというのは、一人で作るということはほぼないんじゃないかと思う。だから、個人個人の技量(技術力)とべつに、チームプレイをどうこなすか、という視点がないとうまくまわらないよね、というのが基本的な立脚点になる。

そこで、基本的な原理として、謙虚(Humility)、尊敬(Respect)、信頼(Trust)のみっつ(頭文字を集めてHRTと書き、ハートと読むらしい)が提案され、この原理にもとづいていろんなテーマが語られる。チームの文化について。いいリーダーとだめなリーダーの違い。だめな人をどう排除するか。などなど。

それぞれのテーマについて、ベストプラクティスがあったり、失敗事例が紹介されたりする。著者はGoogleでエンジニアをしているが、いろんな会社も渡り歩いており、また同時にSubversionの作者でもあり、Apache Foundationとも関わりがあるため、オープンソースコミュニティと社内のエンジニアリングチームの双方について、共通して言えるような部分をくくりだし、解説している。これがいちいち面白い。

読んでいるあいだの印象としては、高林さんがWEB+DB PRESSに書いていた連載のうちコーディングのテイストが薄いもの(プログラミングの光景 プログラマについてとか、バッドシグナル通信 チキンレースとか)とちょっと近いかなと思う。ただ、高林さんの文章はそれぞれが独立して読めるエッセイだったのに対して、この本はきちんとテーマ設定をして、構成を練ってあるといった違いがある。

……ところで、artonさんは本書をして「悪の教典」だと書いたけど、どうしてそう読めるのかよくわからないなあ。いや、すっとぼけないで書くと、本当はちょっとわかる。どういうことかというと……

本書の基本的な価値観は、謙虚・尊敬・信頼の HRT がけっきょく大事なんだ、ってこと。自分が一番デキるし頭もいい、とかいうことを内心そう思っていたとしてもそういう態度を取るべきではない、ということになっている。

でも、なぜそうなのか、というところに善であるとか、正義であるとか、そういう価値観や道徳を持ち出さないのだよね。著者の表現はエゴイスティックで、けっきょく自分が一番生産的であるためには、とか、チームがへんなことにならずにちゃんと進むためには、とか、そういう自己の目的達成のための道が、実は HRT なのだ、ということになっている。そのためには、ほんとうは俺が一番アタマいいと思っていても謙虚な態度を取るほうが有益であり合理的だ、ということになる。

HRT を目指すのはそれが善であったり正義であったりするからではないし、そうである必要もない。ほんとうはとても邪悪な人間でも、仕事を進めるためには HRT を実践しよう、という論調になるわけ。そういうふうにとると、まあ邪悪であるのかもしれない。

でもぼくはあんまりそうは思わない。行動心理学的には、内心がどうであるかなんてのはどーでもいいのだ。ふだんの人間がどういう人であっても、一緒に仕事をするときに謙虚であり、仲間を尊敬しているような態度であり、他人を信頼するような言動をしているのであれば、その人は HRT フルな人だ、といっていいのだし、それがきちんと維持できるのであれば、それはナイスなんじゃないかな、と思う。

そして、HRTを主軸にもってきたのは、やっぱり著者の価値判断だろうとぼくは思う。2章では、チームには文化がある、という。そしてHRTをきちんと実践して、変な文化が根付かないようにし、ナイスなチームを構成して物事を進めていこう、という論調になっている。

でもぼくらは、そういう「ナイスなチーム」だけが全てじゃないってことを知っている。Linuxカーネルのコミュニティは、よくリーナスの暴言が話題になっている。リーナスは露悪的に「ダークサイドに来い」とか言ったりするし、彼は暴言を吐くことによって変な奴の蔓延を防いでいる、といったことは真剣に考えているのではないかと思う。それでもLinuxカーネルコミュニティは(たまにトラブルがあるみたいだけど)きちんと回っているし、あれはひとつの文化かなと思う。

文化というのは相対的なものだから、チームの文化をどうするかという選択は当然、チームの構成員に委ねられるわけだし、HRTフルである必然性はない。この手法がベストだという合理的な理由もない。

でも、じゃあ、なんで、著者がその主軸にHRTを選んだのかというと、けっきょくそういうコミュニティがいちばんいいのだ、と思っているからだろう。ただ、その結果を得るにあたって、かならずしも全員に同じ価値観を共有してもらう必要はない。ちゃんとしたエンジニアは合理的なので、合理的に考えてHRTが現在のシチュエーションではベストだ、と判断するだろうし、それによってナイスな組織が達成されるだろう、と考えているのではないだろうか。

---

もうひとつの本書のたのしみは、オープンソースコミュニティ運営に関するものだ。会社とちがって誰でもメーリングリストに参加できるから、オープンソース界隈にはそういう文化衝突というかよくわからない摩擦がしょっちゅう起きている。そういう問題をきちんと取り扱った本というのはぼくはあまり読んだことがなかったし、自分もオープンソースのコードをちょびっと書いたことぐらいはあるから、たいへん面白かった。

おすすめです。

2013-07-22

メカが嫌いな男子なんていません!『パシフィック・リム』

To fight monsters, we created monsters
『パシフィック・リム』、最高でした。(日本語版公式サイト)

ええっとなんていうか、ここで「最高」という場合、ストーリーの良し悪しというのは、問いません。でもなんというかこう、ああーこういうシーンが撮りたかったんだろうなというか、こういうシーンが好きなんだろうなというか、そういうシーンがてんこ盛りの2時間であります。っていうか、ほぼそれしかない。

太平洋の海底のどこかから突如として怪獣たちが出現しはじめ、それが kaiju (カイジュウ)と呼ばれるようになり、人類は総力を結集して巨大人型ロボット、イェーガーを作り出して怪獣に対抗することになった。マスタースレーブ方式で操作するのだが、単独で操縦するのは脳に対する負荷がかかりすぎるため、二人一組となって一体のイェーガーを操作する……といった基本的な設定の紹介は、開始5分ほどでナレーションで紹介されておしまい。あとはまあ、基本的にはイェーガーとカイジュウたちとの戦闘また戦闘、たまに設定紹介、そして戦闘、といったノリであります。

そういうわけで、見どころはやはりタンカーを手にカイジュウをぶん殴るシーンであったり、「まだ方法は残ってる!」で剣を抜いたり、そんなかんじだと思うわけです(しかもこのソードがまた、いわゆる蛇腹剣なんですよ。鞭状態では武器にしないけど)。でも剣もってたら最初からそれ使えよタンカーとかじゃなくてさ……いやいやいや。そういうことではない。たぶん。

じっさい、ストーリーとか設定とかのアラはいろいろある気がするんですよ。電力を止めるカイジュウが最強すぎじゃないかとか、いくら核エネルギーベースだからって主人公機も内部駆動は電力だし出撃できないだろ、っていうかハンドシェイクは基地の設備でやるじゃん、とかなんとか。どうでもいいけど、中国製イェーガーとかロシア製イェーガーが思わせぶりに登場したわりにまったく活躍しなさすぎて残念とか。棒術で訓練するのってそんなに意味あんのかとか(まあタンカーの伏線だと思いますけど)。

そういえば、中国機(クリムゾン・タイフーンというらしい)が機敏で4本腕のトリックスター系なのに対してロシア製(チェルノ・アルファ)が鈍重だが分厚い装甲による高い防護力、みたいなステレオタイプイメージはどうしてそうなのかよくわからんけど面白いなーとか。

ま、よかれあしかれ、そーゆー映画であります。ウィキペディアのページから批評をいくつか拾い読みすると、心理描写が弱いといった批評があるようですが、そういうことを言う奴はなにもわかっちゃいない。そもそもそんなものを期待してこんな映画見に行くやついない。誰もがなんかすごいメカが怪獣と戦うシーンを見に行くわけで、その期待は確実に満たされるといっていいと思います。むしろそれ以外は何も期待をするなと言いたい。精緻なSF設定ではないので、心理描写以外にもヘンなところはいっぱいあると思いますが(そういえばイェーガーって格納時にはそのまま保管されてるのになんで出撃時にだけわざわざ頭部をパイルダーオンするんだろ?とかそういう)、まあそれも味わいというやつです。

そういえばヒロイン役の菊地凛子の回想シーンでの日本のシーンがちょっと微妙にヘンだった(笑)。わざとやってるのかあれは、「萌&健太ビデオ」とか(町山智浩さんもツイートしてた。やっぱみんな気づくよな)。ナンバープレートも日本のじゃなかったしなー。

ところで、タイトルは元ネタと語調をあわせるために「メカ」としましたが、デル・トロ的にはやっぱり怪獣映画ということなんだと思います。BGMもカイジュウ登場シーンにはなんか怪獣映画っぽいテイストのが使われていたし、スタッフロールの最後でも、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎へ献辞が捧げられていました。

というわけで、いまさら言うことでもないですが、この手の映画好きはマスト見るべしですよ!

さっそく Play Store All Access で入手したサントラを聴きながら。

2013-06-20

アメリカの免許が届かなかった話

かなり前に解決済みのことなのですが、記録のために書いておきます。アメリカで運転免許を取得した場合、郵送されるのですが、なぜか届かないことがあり、その場合はアクションを起こさないといつまで経っても届かない、という話。

さて、アメリカで運転免許を取得する場合は、日本と同じように筆記試験と実技試験を受けることになります(教習所の合格で実技試験をパスする制度、みたいのはないのだと思います)。で、実技試験に合格した場合、おめでとう、といってその場で渡されるのは temporary license という紙っぺら一枚だけ。ようするに仮の免許証というやつでして、本物は後日、郵送されることになっています。だいたい、合格してから平均して2週間程度で届くようです。仮の免許の有効期限は3ヶ月くらいあるので通常は問題ありません。よね?

私は昨年末、11月ぐらいに実技試験にようやく合格したと思います。ところが年末になっても届かない。おかしいなーと思って、免許を取得したDMV(交通局)に行って「まだ来ないんだけど調べてくれないか」と問い合わせたのですが、あーはいはい、みたいな雑な反応で期間の延長された仮免許が再発行されるしまつ。うーん、そういうものだろうか?

おかしいなあと思っていたのですが、その後、似たような時期に渡米した同僚にも同じ問題が発生していることがわかり、そっちのほうで調べてもらってようやく判明したのですが、届かない、というのは比較的よくある状況なのだそうです。検索するといろんなQ&Aフォーラムも出てきますし、スタンフォードの学生向けのサイトにも載ってますし、サンフランシスコ領事館のFAQにも載っています。

それらの情報や、わたしがその後DMVの人から聞いた情報を総合すると、どうもこんな感じのようです。外国人などが免許を取得しようとした場合、合格の情報はいったんDMVの本部(州都であるサクラメント市にあります)に集められ、そこの法務によって、合格者の現況が調べられます。たとえば合法的に滞在しているかどうかとか。

ところが、なぜかその時点で書類に不備があることがあり、すると滞在状況の調査ができず、そこで手続きが完全にストップしてしまいます。そうなったということはこちらには全く知らされず、単純に確認手続きは何ヶ月でもそこで止まったまま先に進まない、ということのようです。なので、待っていても何も起こりません。何もしなくても1年後には届いた、という話もあるので、いずれは何かが起こるのかもしれませんが……。

また、各地にあるDMVの普通の受付の人は、こういう事情を知らなかったりするようです。調べてくれ、と言っても調査をしない人もいます(ぼくが最初に問い合わせた人もそういうのだったと思う)。そういう人の場合、単に仮免許を再発行しておしまい。でも、データベースを照会して、ビザとかが足りないみたいだね、と教えてくれる人もいます。ほんと人によってマチマチ。

そういう事情であるので、やるべきことはDMVのサクラメント本部の法務部に電話をかけ、事情を説明することです。するとたいてい、ビザとパスポートのコピーが必要だからファックスしてくれ、と言われます。なのでファックスするわけですが、できればさらにメールアドレスをききだして(メールアドレス自体はDMVのなかのページにも一応ありますね。loddlidsp@dmv.ca.gov)、スキャンした電子データをメールでも送信したほうが良いでしょう。で、メールを送ると基本的には翌営業日には返事が返ってくるので、それで手続きの完了がわかって、それから2週間ほどするとようやく届きます。

僕の場合、この電話でのクレームが不慣れで、1回めの電話では「とにかくあと2週間待て」と言われ、2回めの電話ではファックスを送ったが2週間してもなしのつぶてで、3回めの電話でファックスとメールを両方送って、それでようやく届きました。けっきょくいろいろもたもたしたこともあり、免許が届いたのは3月ぐらいだったかと思います。仮免許の有効期間は2回延長しました。

このステータスに陥るかどうかというのはどうも運みたいなもののような気がするので、祈るしかありません(なんの不都合もなく普通に免許が届いた人もいっぱいいます)。個人的には、DMVの職員の一部がダメな人たちで、ビザなどの書類が必要であることを理解しておらず、本部に送ってないとかそういうことだろうと思ってます。まあそれがわかったところで手のうちようはなにもありません。

それにしても、こういう場面でアメリカの役所の事務処理能力の低さを見ると、日本の役所ってのは優秀だったんだなーとつくづく感心するのでした。

2013-06-06

宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』



ヨハネスブルグの天使たち

短篇集。ちょっと未来、ゆるやかにつながっている同じ世界のいろいろな場所で、民族主義や宗教など現実的な問題を扱った連作短編集となっている。

背景として出てくるのはDX9というアンドロイド。日本製で、もともと玩具というか楽器として販売されはじめた、というどこかで聞いたような設定をベースにして、シミュレーションに使われたり、兵器になったり、といったかたちで作品たちを彩る。とはいえ、これはあくまでも背景であり、同一の世界であるということを強調するための小道具みたいなものであって、物語の主軸はやはり先述したようなものということになる。

ただ、表題作の「ヨハネスブルグの天使たち」は個人的にはそこまででもないような気がした。今よりも少し未来、民族主義が強まって内戦状態になった南アフリカで最大の都市であるヨハネスブルグを舞台に、ポンテタワーを念頭に置いているような印象を受けたマディバタワー、そこに日本が試作したDX9というアンドロイドの落下耐久試験場を設置して、年がら年中墜落させているという設定は魅力的なのだが、しかし、ストリートチルドレンとしてしたたかに生きる主人公たちの物語とこの設定がどこか咬み合っておらず、なんとなくふたつの設定が併置されているだけのような印象を受けた。

個人的に面白く読んだのは「ロワーサイドの幽霊たち」と「ジャララバードの兵士たち」。

「ロワーサイドの幽霊たち」は9.11の40周年に向けてツインタワーを再建し、そしてまた飛行機の追突事故を再現させるというすごい設定だが、これは読ませるものがある。後年のシミュレーションによって過去の事件を幻視するという手法は著者が前著ですでにやったことに似ているが、この作品でも効果的に機能していると思う。
様々な参考文献に依拠しつつ視点人物の心情を大胆に取り入れて描いたりするフィクションの手法を取ること、そしてシミュレーションというものをある種の言い訳にして描いている点には、個人的にはモヤモヤするものがないでもないのだが……。

「ジャララバードの兵士たち」はアフガニスタンを舞台にしてあるアメリカ軍兵の殺人事件を軸に、とある陰謀に巻き込まれる主人公たちの話。ストーリーとしても一番ふつうのSFっぽく、また帯にいう「伊藤計劃」的な世界観に一番合致しているのが本作だろう。そうした意味で本書のなかで一番「ふつうに面白い」と思う。また、DX9が戦闘兵器として登場する冒頭部分はけっこうかっこいい。


2013-05-26

魚は痛みを感じるか?



ヴィクトリア・ブレイスウェイト『魚は痛みを感じるか』

期待しないで読んだが予想よりはるかに面白い本だった。魚は痛みを感じるかって?どーだっていいよ、という人ほど面白いんではないかと思う。というのは、私が面白いと思ったのは、この設問そのものよりもむしろ、なぜこんな設問が設定されるのか? なぜその設問が大事なのか? という、もっと背景的な部分だからだ。……まあぼくが不勉強でよく知らなかっただけかもしれないが……。

本書はイギリス人の研究者が、魚が苦痛を感じる能力があるかどうかという研究を一般向けにまとめた本だ。

苦痛、というのは主観的な感覚なので、実験的に確かめるのは難しい。痛覚刺激を与えると反応が生じるのは生物としては当たり前だが、これが反射にすぎないのか、それとも実際に苦しみを感じているのか、というのは区別されるべきだと著者はいう。だが、痛みに反応するのと苦しんでいるという主観はどう区別し、確認すればいいのか? そんなことは確認できるんだろうか? 実際のところ、ほかの動物でも苦痛を感じる能力の有無についての研究というものはあり、それを応用することで魚に対しても実験はできる。この実験の設定方法や、なぜそれで苦痛を感じるといえるのか、というあたりもけっこう面白いのだが……

いずれにせよ著者は結論づける。魚は痛みを感じる。

……で? というのがこの本の面白いところだ。

そもそも問題は動物愛護に立ち戻る。動物愛護の思想的背景について自分はまったく無知だったので、素朴な動物愛護観はわかるものの、それ以上のものは何もなかったという状態。だから、「魚は痛みを感じるか?」という問題設定そのものがピンときていなかったわけだ。

動物愛護の思想的な支柱となるのはなんだろうか? ぼくにはよくわからないが、著者によればそのひとつは、動物も人間と同じように苦痛を感じる能力があることだという。不当に動物を苦しめるのはよくない。だから家畜といっても非人道的な扱いはよくないし、闘牛や闘鶏のような行為は不当に苦しめる虐待にあたるのだという理論展開ができる。なるほど、家畜の屠殺などでも、苦痛を感じないように気絶させてから処理するという話もあるし、こういう部分の根っこは同じなのだろうなと思う。

この辺は倫理の話だから正解はない。苦痛を感じるかどうかで判断すべきっていうのは本当にそうなのか?という疑問も大事だ。大事だが、この論理に筋が通っているのは確かだ。そして筋が通っているだけに、同じ論法が魚に当てはまるのかどうか、というのが大きな問題になる。そして少なくとも著者の言うところによると、イギリスでは魚は直感的には痛みを感じないとされている。あるいは、そう考える人がかなりいる。魚は実際に異質だし、共感するのは難しいかもしれない。だから、魚に何をしても、それを虐待だと考えるのが難しくなっているのだという。

つまり、魚が痛みを感じるのか?という設問は、魚は動物愛護の範疇になる生物なのか?という問題に行き着かざるをえない。魚が痛みを感じるのであれば、現在のようなトロール漁のような漁法には倫理的な問題があるかもしれないし、スポーツフィッシングにも問題があるかもしれない。実際、魚が痛みを感じるか、という内容の記事を新聞に寄稿したところ、釣り人たちから猛烈な反応があったのだという。スポーツハンティングが、やはり残酷であるといった理由で禁止されることもあるわけだからして、この反応は切実なものである。

余談だが、クジラは賢い動物だから……といった捕鯨反対運動の人の考え方も、考えてみるとこういう論理と近いものがあるのかもしれない。クジラは哺乳類で脳も大きく、苦痛を感じる能力があるが、魚は原始的だからない、という直感があるのであれば、海棲生物の保護についても、一本、わかりやすい線を引くことができる。

だが、著者は「そんな線はないんだよ」と示してしまった。著者はさらに、エビのような甲殻類も苦痛を感じることができるという。もう明快に線を引くことはできないかもしれない。ではジャイナ教徒みたいに、腕に止まる蚊の苦痛すら考慮に入れるべきなのか? でも、動物愛護ということ自体は間違ってないし、虐待というのは要するに苦痛を不必要に与えることだ、という前提は崩したくない。困った。というのが終章の議論となる。

はっきりいって、著者はきちんとした結論はくださない。せいぜいが、食べるためにとった魚は家畜と同じように苦しまないように殺すべきだとか、活け締めは一撃で殺すからましかもしれないとか、スポーツフィッシングにしてもかえしのない針のほうがいいだろうとか、そういう話だ。

だがいずれにせよ、著者の目的は結論を提示することではない。それは序章にもきちんと書いてある。議論をしましょう、という。著者の役割は、その議論の根拠となる事実を与えることだと。だから、読み終えても心にモヤモヤは残るのだが、それでも悪くない本だったと思う。

2013-05-24

藤井太洋『Gene Mapper -Full Build-』



ようやく読んだ。食わず嫌いは良くないね。面白かった。

この『Gene Mapper』の世界では、遺伝子レベルで様々な改変がもたらされた「蒸留穀物」がはびこる世界になっている。こうした穀物は二次不稔性をもっていて、つまり種を植えると(うまくすれば)実りを得るが、そこで得られた種を植えても次の世代は育たない。農家はマスターとなる種をつねに遺伝子を保有する企業から買わねばならず、企業が高い権限を持つ。

また、コンピュータプログラムの暴走によってインターネットは崩壊していて、別な世界が展開されている。いまのプログラマみたいな職業にあたるのが、遺伝子に様々な「コーディング」をすることで望の特性を与えるジーンマッパー、といった設定だ。

このディストピアめいた設定はパオロ・バチガルピの作品(『ねじまき少女』や「カロリーマン」「イエローカードマン」など)を思い起こされる。よく知らないけれど、影響がないとは思えない。「ねじまき」がタイが舞台なのに対して本書はベトナムが舞台になるし。

だが、読んでみれば、むしろ違いのほうが目立つはずだ。バチガルピは世界を陰気なディストピアとして描いていた。なおかつ、ローカス誌のインタビューで、自分の作品をディストピアだとよく言われるけど、実際にはむしろやわらげて描いている、といったニュアンスの発言をしていた記憶がある(オンラインには出てこないね……こういうときに捨ててしまったことが悔やまれる)。そういうペシミズムが通低音として響いている作品だ。いっぽうの藤井太洋は、世界をそれほどひどいもんじゃないように描いている。インターネットが崩壊するとか、通常の作物が育たなくなるとか、けっこうひどい大事件があったわりに、現代のぼくらの生活と案外かわらない生活が続いているようだ。

この雰囲気の差は決定的で、こうであるからこそ本書はこういう結末になるのだし、だからこそ本書は正しい、と思える。ともすると、ディストピアな世界像のほうがシリアスでちゃんとしている、といった印象を自分は抱きがちなのだけど、その直感は当てにはできない。本書は、こうであるからこそ価値があるのだ、と思った。

それにまあ実際のところ、世の中というか人々の暮らしっていうのは、案外とこんなものかもしれない。そのこととバチガルピの描く下層民や難民たちの描写と対立するものでもないだろう。

amazonのレビューを見るかぎり、当初出た -core- と、かなりの分量が書き足され早川書房で編集された -full build- はかなり違う内容のようだ。ぼくが読んだのは full build のほうで、読んでいてもなんの違和感もないし、エンターテイメントとして瑕疵は見当たらない。 -core- はその辺が荒削りであるようで、その魅力もあるのかもしれないが、さすがに読み比べるほどの気力はないかなあ。