ようやく読んだ。食わず嫌いは良くないね。面白かった。
この『Gene Mapper』の世界では、遺伝子レベルで様々な改変がもたらされた「蒸留穀物」がはびこる世界になっている。こうした穀物は二次不稔性をもっていて、つまり種を植えると(うまくすれば)実りを得るが、そこで得られた種を植えても次の世代は育たない。農家はマスターとなる種をつねに遺伝子を保有する企業から買わねばならず、企業が高い権限を持つ。
また、コンピュータプログラムの暴走によってインターネットは崩壊していて、別な世界が展開されている。いまのプログラマみたいな職業にあたるのが、遺伝子に様々な「コーディング」をすることで望の特性を与えるジーンマッパー、といった設定だ。
このディストピアめいた設定はパオロ・バチガルピの作品(『ねじまき少女』や「カロリーマン」「イエローカードマン」など)を思い起こされる。よく知らないけれど、影響がないとは思えない。「ねじまき」がタイが舞台なのに対して本書はベトナムが舞台になるし。
だが、読んでみれば、むしろ違いのほうが目立つはずだ。バチガルピは世界を陰気なディストピアとして描いていた。なおかつ、ローカス誌のインタビューで、自分の作品をディストピアだとよく言われるけど、実際にはむしろやわらげて描いている、といったニュアンスの発言をしていた記憶がある(オンラインには出てこないね……こういうときに捨ててしまったことが悔やまれる)。そういうペシミズムが通低音として響いている作品だ。いっぽうの藤井太洋は、世界をそれほどひどいもんじゃないように描いている。インターネットが崩壊するとか、通常の作物が育たなくなるとか、けっこうひどい大事件があったわりに、現代のぼくらの生活と案外かわらない生活が続いているようだ。
この雰囲気の差は決定的で、こうであるからこそ本書はこういう結末になるのだし、だからこそ本書は正しい、と思える。ともすると、ディストピアな世界像のほうがシリアスでちゃんとしている、といった印象を自分は抱きがちなのだけど、その直感は当てにはできない。本書は、こうであるからこそ価値があるのだ、と思った。
それにまあ実際のところ、世の中というか人々の暮らしっていうのは、案外とこんなものかもしれない。そのこととバチガルピの描く下層民や難民たちの描写と対立するものでもないだろう。
amazonのレビューを見るかぎり、当初出た -core- と、かなりの分量が書き足され早川書房で編集された -full build- はかなり違う内容のようだ。ぼくが読んだのは full build のほうで、読んでいてもなんの違和感もないし、エンターテイメントとして瑕疵は見当たらない。 -core- はその辺が荒削りであるようで、その魅力もあるのかもしれないが、さすがに読み比べるほどの気力はないかなあ。
No comments:
Post a Comment