2013-12-29

六冬和生『みずは無間』。もっと「SF設定」が必要


六冬和生『みずは無間』を読んだ。

第一回ハヤカワSFコンテスト受賞作、著者にとってもデビュー作であるような本書をけなすのはいかがなものかという向きもあるかもしれないが、個人的には本書はまったく受けつけなかった。

人格を転移して深宇宙を飛ぶ探査船となった主人公を語り手とした小説。自らの分身を作ってばらまいたり、はたまた独自の情報生命体を進化させてばらまいたり、その行く末の者たちとふたたび邂逅したり、といった独白から、主人公や人類の行く末、来し方が語られる。そこには、主人公の元恋人であったみずはが影を落とす……。

のだが。

自分はきわめて偏った読み方をしていると思う。が、ぼくは、読んでいて、とにかくこの本のディティールが気になって仕方なかった。著者は何を考えてこういう描写を書いたのかがさっぱりわからないのだ。

のっけから、漢字2文字の単語を「4バイト」と表現したりするところでのけぞった(こんな未来なのにUTF-16を使ってるの? まさかJISのコード体系はありえないよね)。それから、ごく序盤に出てくるフォン・ノイマン・アーキテクチャについては著者は完全に間違って理解している。

こうした間違いは瑣末なものだ。だが、それから先の展開についてはどうだろう。たとえば情報生命体にとって「切り刻まれ」あるいは「解剖される」とはどういうことなのか? 「食われる」とは? 著者は「情報」という言葉をどういう概念として捉えているのか? Dたちは、集合的な知性なのか、それとも個別集団がいて主人公とは代表者がコンタクトしているということなのか? 集合的な知性であれば、それが分派するとはどういうことか?

著者は、こういった言葉を、とくに深い考えもなしに書き連ねている。と、ぼくは読んでいて思った。

他にも気になることがある。たとえば身体的な比喩として、電位が云々、といった言葉が出てくる。それってつまり、主人公は電気で動くコンピュータなの? でも量子コンピュータだし、ナノマシン集合体みたいな感じになって形態や密度を変化できるよね? 粒子同士はどうやって相互作用し、形態を維持している? 粒子同士はどうやって通信している? 電位ということは、電波で通信しているのかな? だとすると、実態としてさしわたし1AU以上もあるようだけど、そうすると端から端まで情報が行き渡るまで8分とか10分とかかかってしまう。であれば、極めてゆっくりした反応を示す(数秒で考えることなど出来はしない)知性でなければ、おかしい。それとも周辺部はセンサであって、知性は適当な中核に宿っているのだろうか? 周辺部にはサブ意識のようなものがあって自律的に動作しつつ、それらを統合したものとして主人公があるんだろうか? だとするとそのような意識は、このような物語を語れるような存在なんだろうか?

細かい設定のひとつひとつについて言えば、説明なんてなんでもいいのだ。未知のフリーエネルギーでもいいし、なんか超光速通信でもいい。でも著者は、そういうディティールをすっぱり無視しているんじゃないか。そして、こういうディティールを積み上げていくと、この物語を成り立たせているものであるところの「登場するキャラクターたちのあり方」「行動が持つ意味」「コミュニケーションの取り方」などがまったく変わってしまう。それなのに、著者はそういうところに気を払わないで、不用意に電位とかAUのような述語や、「切り刻む」とか「食う」といった単純な表現を適当にちりばめてしまっている。

なので、ぼくとしては、ようするに著者は、そういう設定はなんも考えてないんじゃないか?と断定して読んだ。そしてそこが引っかかってしまってどうしようもなくなってしまった。

この本は、グレッグ・イーガン、特に『ディアスポラと比較されているようだ。確かに表層的な設定は似ているところがある。だが本質的には全く違う。

『ディアスポラ』の最初の章などは、大森望による解説ですら「わからない場合は読み飛ばすべし」などと書いてあるようなものだが、ぼくにはあれはわかる。でも、あれが万人向けだとはとても思わないし、読者がよんでまったく意味がわからなくても、読み手としては何の問題もない。イーガンの本を読む際に、扱われている題材を理解すべきだ、とは思わない。

だが、すくなくとも書き手であるイーガンのほうは、ああいう事柄を理解して書いている。もしかしたらその理解が間違っているかもしれないけれど、少なくとも自分がどういうことを書いているかということを把握して書いている。飾りじゃないのだ。

「ボーダーガード」という短編には量子サッカーというスポーツが出てくる。これが、読んでも「なるほどわからん」というものなのだが、実はイーガンのサイトで擬似的なものを遊ぶことができる(Javaアプレットで書かれてるのでぼくの手元の環境だと動かないけど……)。そして遊んでも「なるほどわからん」となる。だが、イーガンは自分でそういうゲームを作れるぐらいには「これがどういうものであるか」ということを把握しているということだ。読んでいてもそこは伝わる(読んでわからないのは「ほんとにそれ面白いの?」というところかもしれない)。

翻って本書で著者がやっていることは、そうした設定を深く考えることなしに、なんとなくかっこよさげな単語を貼り付けてハッタリをかましているだけのように思える。そこが個人的にはつらいポイントだった。

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さて、このような批判を書くと、次のような反論が想像される。第一に、SFとはそういうふうにどこまでも考えぬいて書くようなものなのか? そんな原理主義的な読み方は硬直的ではないか? というもの。第二に、本書の核心はそのようなところにはないのだから、どうだっていいじゃないか? というもの。

実はその点については異論はないのだが、少しこちらの側の言い分を書いておく。

第一に、設定が曖昧でふわふわしたSFなどいくらでもあるのは確かである。でもだからといって、上で書いたようなディティールはただの難癖だろうとも思わない。確かに硬直的かもしれないが、そういうのは程度問題かなと思っている。

たとえば、こないだ読んだ小川一水の『コロロギ岳から木星トロヤへ』はとてもいい作品だった。この作品には「時間を移動するかわりに空間方向の移動に制限のある知的生命」というのが登場して地球人類と邂逅するのだが、この知的生命体の異質さの表現はかなりたくみである。小川一水がどこまで深く考えていたかはよくわからないし、仔細に検討すると矛盾もありそうな気もしないでもないが、読んでいる間にひっかかりを覚えることなく、その異質さを代表するようなシーンを組み込むことで、無駄なく丁寧に表現できている。それがただのハッタリだったとしても、ハッタリ力が高いので読者は楽しんで読むことができるということだ。

これもまた程度問題というやつでしかない。ぼく以上に詳細が気になる人は「コロロギ」もダメかもしれない。だけども、やはりぼくとしては本書のハッタリ力はきわめて脆弱であったと言いたくなる。

第二の点についてはまったくその通りで、正直なところこういったディティールはこの本の核心ではないのは確かだろうと思う(なのではじめに「偏った読み方」だと逃げを打っておいたわけだけど)。それはそうなのだけど、でも、そうであれば、どうしてこういう設定にしてしまったのか?とぼくは思ってしまう。

宇宙探査機、量子コンピュータ、ナノ粒子、情報生命体、などなどの要素は著者がわざわざ持ち出してきたディティールである。だから、それなりのハッタリ力をもってこういうディティールを押し通してほしいと思う。そして上に書いたとおり、細かい設定を考えていくと、描写されているシーンの成り立ちや展開や描写にも影響は出てくるはずで、そういうことを考えるのもSFの味というやつではないかと思う。

SFアニメとかに「SF設定」という役職の人がいる。アニメなんかだと、脚本家とかがストーリーを考えていくわけだが、そのストーリーの根拠となる設定部分を考えるのがSF設定だ。脚本家やスタッフが「こういうストーリーにしたいんだが設定を考えてくれ」という感じで下支えする根拠をひねり出していく仕事であるようだ。

そういう意味での「SF設定」が、本書は弱い。つまり、こういうストーリーをやる、設定のベースとしては、宇宙で人工知能の探査機にしたい、という基本コンセプトに対して、であればこういう設定ならこういう話になるんじゃないですか、という部分が弱く、結果的にディティールがひっかかることになったのではないか、と思う。

2013-12-25

年末休暇あれこれ

年末帰省ということで日本にいます。12月の24と25日は会社は休みでした。弊社はさらに23日もよくわからない理由で休みだったけど……。

この日は一般にはクリスマスということになっていて、社内的にもどうやらクリスマスという名目で休日になっています。街に出ても、お店の人や道行く人達に「メリークリスマス!」と挨拶されたりする日です。

が、もちろんクリスマスというのはキリスト教の祝日なので、他の宗教は関係がありません。ユダヤ教は同時期にハヌカーがあるのですが、ハヌカーの日が厳密に一致することはまれみたいですね。

そういうわけで、宗教的に中立色を出そうという意味合いからか、なんとなく曖昧に「ホリデー」と呼ばれることもあります。会社によっては、名目としてはこの「ホリデー」という語を使うこともあるかもしれません。「ハッピーホリデー!」という掛け声もあります。なお、空飛ぶスパゲッティモンスター教徒も、このあいまいな「ホリデー」は祝うことになっています。いずれにせよ、この日はわりと休日であるという慣習が存在しているので、それを維持するためにキリスト教徒以外は「クリスマス」という名称を使わなくても良いようにしている感じですね。

逆に、アメリカにおける年末年始の休暇のクライマックスはこのホリデーかなという感じです。いちおう大晦日と正月は休日になっていたし、年始の瞬間には花火を上げたりするけど、まあそれだけ。1月2日からふつうに仕事が始まります。まあそのまま休暇を入れている人も多いですけどね。

なお、東京オフィスはそういうことはなく、基本的には国民の祝日のみを休日としています。23日は天皇誕生日で休みだけれど、24-25日は平日ですね。「基本的には」としているのは、三が日などは普通に休みだけどこれって法定の祝日ではなく慣習だよね、的なこともあるからですが。

アメリカに行く前は、慣習を維持するために名前を捻り出すのってどうなのよしかもホリデーって一般名詞じゃねえかとか思ってたけど、まあ休めるのに文句はないし、俺キリスト教徒じゃねえしなって思ってもハッピーホリデー!って気兼ねなく言えるのは良いなと思ったことでした。

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余談ながら、中国人は年末年始のお休みはぜんぜんないですね。基本的には一月にある春節(旧正月)をちゃんとお祝いしてガッツリ休むけど、それ以外にはあまり興味はなさそう。アメリカに来ている人たちならホリデーを休んだり休暇も取るだろうけど、やっぱりメインは春節という印象があるなあ。中華系やベトナム系のレストランも、春節の週は休んじゃうことはけっこう多いですね。

むかし、中国のオフィスの人たちと仕事をしたことあったけど、マジで大晦日とかでもコードレビューが来たり返事が返ってきたりして、ほんと休みじゃないんだなーと感心したりしました。いやそれは個人の問題かも?

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まあなんかぐだぐだになったけど、Happy Holidays!

2013-12-23

「今日使われているプログラミング言語のほとんどは90年前後に誕生」ってほんとう?

「今日使われているプログラミング言語の多くは、なぜ1990年前後に誕生したものなのか」に関する一考察 http://d.hatena.ne.jp/kazuhooku/20131221/1387603305 という文章を読んだ。

内容をまとめると、90年ころからコンピュータのメモリコストが下がり、変な制限をつけなくても文字列を簡単に処理できるようになった、そういう新しい言語や処理系は文字列処理の優位性があるので今でも生き残って使われている、という仮説だ。

仮説構築としては面白いと思う。でも、いろいろ議論に穴があるんじゃないかなぁという気がしているのでちょっと事例を調べてみた。

C++。C with classesのはじまりは1979年で、1983年にC++という名前になる。90年前後ってのは全然ただしくない。ただ、このころのC++にはSTLは存在しなかったわけで、「文字列型」もなかった(のだと思う、知らないけど……)。となるとSTLの歴史も知っておく必要があるが、STLは92年ということで良いのかな? これは90年前後と言えると思う。

Objective-Cも登場は同じ1983年だ(↑には言及されていないけれど、iOSアプリを書くのに必要な本言語はまさに「今日使われている」だろう)。とはいえNeXT以前のObjective-Cがいったいどうなっていたのかはまったくわからない(たとえば、NeXT以前にNSStringがあるわけない)。NeXTの創業は85年だそうだが、NSStringなどのフレームワークが、いつどのように整備されていったのかはぼくは知らない。NeXTStepの発展の歴史をひもとけば、これが90年前後ということはかなりありえそう。

Java。Javaの登場は意外と新しく1995年だ。これは、90年前後と言うには振れ幅が広いんじゃないですかね……。Javaから名づけたJSも95年と同年だったのは知らなかった。

スクリプト言語類を見ていくと、Perlは87年、Pythonが90年、PHPとRubyが95年。あとLuaが93年。PHP/Rubyはけっこう新しいですね。これを「90年前後」と言うかなあ……。

以上は、昨今の業務において比較的メジャーな言語といえると思う。もちろんScalaやGoなどの新しい言語も「使われている」の範疇に入れていいと思うけれど、確かにこの辺の言語は生き延びている。

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もう少し視野を広げてみる。たとえばHaskellはどうだろう。「今日使われている」かはさておき(一部の特殊な世界では使われているが)、Haskellは文字列型を持たない言語だ。文字列とは単なる文字のリストであり、豊富なリストユーティリティを持つからいいじゃねえかという気もするけれども、やはりそれは違うだろう。そしてHaskellの登場は、じつはまさに90年だったりする。

ただHaskellの文字列型も、それじゃやっぱり不便だよねということでByteStringなどが整備されていったりしている。その現象が起きたのはここ数年……とまではいかなくても、00年代後半以降である。これはHaskellがそれなりに使われようとされはじめたということを意味している、のかもしれない。そうじゃないのかもしれないが。

同じようなパターンがErlangにも当てはまるかも。Erlangにも文字列型は存在せず、バイナリ列とか文字コードのリストとかしかなかったはずだ。Erlangは特殊な用途ではあるがずっと使われていた言語である。

あと、ぼくは全く知らないがAdaはどうなのだろう。どういう文字列ユーティリティがあるのかはよくわからないが、Adaは軍用として長く使われてきた実績があるはずである。ちなみに登場は83年。

いちおう言及しておくと、Lisp系の言語はシンボル処理が多かったのではないかと推測されるけれど、もちろん今では文字列型も含まれている。この辺がどういう時期に現れ、発展してきたものなのかはよく知らない。Scheme R3RS (86年)にはすでに文字列リテラルは存在していたし、簡単なユーティリティは存在していた。ただ、文字列の基本的な処理をまとめたSRFI-13は99年の登場となっている(というかSRFI自体がそのころに始まったものなので)。Common Lispの登場は86年だが、CLはそれ自体の由来からしてあんまり参考にならなさそう。

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以上、簡単に事例を積み上げてみたが、やっぱり「90年前後」というポイントにはムリがあるんじゃないかなぁ、というのが個人的な感想だ。だけど一方として、90年ぐらいからパーソナルコンピュータやワークステーションなどの上でのプログラミングでメモリとかを気にしなくても良くなってきた、というのは感覚的には理解できるわけで、その辺のすり合わせをどう持っていくかというのが気になるところかな。

Unixには、主に行志向の文字列処理ユーティリティ群が大量にあった。こういう奴らのストリーム処理に対して、メモリコストの低下から、もっと汎用的に処理ができるPerlのようなユーティリティが発達してきた。で、ワークステーションなどの管理に使われていた。そして、サーバサイドはいまだにUnixというかLinuxがメジャーで、そういうシステムではたいていの場合、文字列処理を多用する(設定ファイルとかはたいていテキストなので)。したがって、文字列処理が得意な処理系は有利だ、という仮説はあるかもしれない。

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最後に蛇足として、こういうことを考えるならついでに「では今現在、もしくは近年、実はコストが下がっていて、それによってプログラミングに変化が訪れているものは何か?」と考えてみるのも良いのではないかと思う。

いろんなテーマが考えられるだろうけれど、昨今の流行や新言語の雰囲気を考えるに、「メモリ非共有なマイクロスレッドによる並行実行処理」なんじゃないかと思う。マルチスレッドやマルチプロセスじたいはありふれているが、スレッドやプロセスというのは比較的重いモノであるという考え方から自由になり、「深く考えずに気軽にスレッドを作りまくって良い」というのは比較的新しいパラダイムだろうと思う(もちろん、むかしからErlangがそういう感じだったのだが……)。それでも最近の言語は、こういうものをうまく扱えることをウリにしているように思うのだった。

2013-12-20

本場の浮かれ電飾を鑑賞する

12月25日が近づき、家の外壁に電飾をよそおう「浮かれ電飾」の季節と相成りました。浮かれ電飾というのは大山顕氏の命名による、なんだか浮かれたクリスマス向け電飾のことです。

さてクリスマス電飾といえば、やはり本場はアメリカなんじゃないか。いやクリスマスの本場はさておき、こういう浮かれた電飾を施すとかアメリカっぽいじゃないですか。イメージだけで書いてるけど。ただぼくもアメリカの年末については(出張も含めて)それなりの回数を経験していますが、実はそんなにどこにでもあるようなものではありません。確かに、何軒かに一軒はなかなかの電飾が見られるのですが、街中がすごい浮かれてる、なんてことはありません。まあ、シリコンバレーは移民が多いしね、本場は別なのかもしれない。

と思っていたわけですが……。

どうやら地区によってイロイロらしい、という話のようなのでした。激しい地区は激しいらしい。せっかくなので、こっちの激しい地区にはなにが起きているのか、ちょっと見てみたいなあと思っていたところで友人に誘われたので行ってきました。
これは住宅だったのか?

さて、シリコンバレー近辺といってもいろんな市があるのですが、今日行ったのはサンカルロスというやや中途半端なところにある小さな市の、とある路地。ちなみに、こういう地区に住んでる人には電力代の補助とかも出るとのうわさを聞きました。すごいですねえ。
人間が住めるのかこれは

この路地に近づくにつれて電飾率が高まっていく(ぼくらの期待も高まっていく)わけですが、行ってびっくり、とにかく、どの家も例外なく電飾。しかもかなり激しい。歩いてると「あ、この家は地味だな」とか思ってしまうけれど、よく考えてみると普通に街中にあったら誰でも振り返るレベルの完成度です。いやここも普通の街中のはずなんですが。
これぐらいだと「ちょっと地味ですねー」という気分になってくる

あと驚いたのが、完璧に観光地化しているということ。車はじゃんじゃん通るし(住民ではない証拠に、人が乗ってて、見物できるようにゆっくり進んでる)、人数も物凄い。写真を撮ってる人は少なかったけどいなくもない。
ツリーの規模が本気だ

なかでも一番すごかったのは、超巨大なクリスマスツリー。何メートルあるのかわからん規模。そしてその脇にはちょっとした電飾コテージがあって、なかにサンタさん像がおられ、記念写真スポットになっていた。そして観光客が列をなしていた。えっと、これ住宅なんですよね……?
この電飾の向こうにサンタさんがいて記念写真を撮られまくっていた

ううーん、この辺に住んでる人って、この時期どう過ごしているんだろうか。などと不安になるレベルのにぎわい。だいたいは、窓から見える範囲に人間は見えなかったので、もしや別のところにバケーションにでも行っているのかとすら思ったけど、人影もなくはなかったので、やっぱり住んでるのかなあ。奥の方なら大丈夫なんだろうか。気合入ってるな……。

たまにちゃんとキリスト教っぽい装飾があるのも「本場」っぽいと言えるだろうか。
三賢人とか、そういえばそういう要素もあったなと

そんで改めて日本の「浮かれ電飾」をデイリーポータルZで振り返ると、いやいや日本のもすごいよなと感心しますね。「本場では電飾するもののようだ」という噂だけから作り上げた虚構のクリスマス電飾がかえって異常進化するという日本にありがちな……ごめん適当に書いた。
なぜカエルなのか意味は分からないが、かわいいので良い
さてそんなわけですが、観光客向けに「Bless our block and all of you」というメッセージを投げかけてくるあたり小粋だなぁと思いました。自分は無宗教なんであれですけど。
Happy Holiday!

2013-12-17

最近読んだ科学一般書2本。『右利きのヘビ仮説』『スズメ つかず・はなれず・二千年』。好対照

細将貴『右利きのヘビ仮説』(東海大学出版会)は、タイトルに惹かれるものがあって買った。ヘビで右利きって?とだれでも思う、よね?

実際には、カタツムリを食べるヘビと、カタツムリの右巻き・左巻きの話。あまりネタバレしすぎないように書くと(すでにしている気もするけど)ヘビの行動特性とカタツムリの独特な繁殖方式により、独特の共進化がうまれる、というもので、この話が実に面白い。読むとなるほど!と思う。生物系の学問にはまったくシロウトの自分にとっても、感心する内容が多かった。

ただ、残念ながら、本としての構成には疑問が残る。というのは、研究の話よりも、著者の研究者としての苦労話が多いからだ。

どこそこに行ってなんという人にあってこの人のおかげでこういう研究ができた、ここに行ったらこのフィールドワークがこれぐらい大変だった、実験をしようとしたら機材が高かった、実験してみたらこの機材は結局いらなかった、そういったエピソードがとにかく多い。著者も筆が達者で、こういうエピソードが面白くないかというと、そこそこ面白い。

でも、ぼくがこの本で読もうと思っているのは研究テーマの中身であって、研究者の苦労話ではないなあ、と読んでいてずっと思った。苦労話もちょびっと入っているとエッセンスとして効いてくると思うけれど、この本は苦労話パートが多すぎるかなと思う。本人として思い入れがあるのは、もちろん苦労したところなので、そこばっかり書いてしまう現象もよくわかるんだけどねえ……。

分量バランスの問題なので、大学出版なので編集パワーが強くなかったからかもしれないし、いっそ誰かサイエンスライターに書いてもらったほうが良かったかも、と思った。

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そういう意味では、三上修『スズメ つかず・はなれず・二千年』(岩波科学ライブラリー)はとても好対照をなしていた本だと言える。

スズメなんて超身近なありふれた鳥だ。裏表紙にも「ザ・普通の鳥」と書いてある。ところが、よく知っているようでいて実はけっこう曖昧なイメージのある鳥でもある。わかっていないことも実はいくらでもある。たとえば、スズメの巣はどこにある?とか。この本は、そういったことをユーモラスに描く。とりのなん子の挿絵や、著者の配偶者の描くイラストも、わりとふんわかしていてファンシー。

さらに、生物学的な要素だけではなく、日本人がスズメをどんなふうに見てきたかなど、人文科学的な側面にもちょっとだけ踏み込む。

スズメが減っているか減っていないのか?という話についても、きちんと説明してくれる。どれだけのことがわかっていて、過去どういう統計があって、そこからどういう推定をして、どういうことが言えるのか、ということを、逃げずに、概論だけは描く。そして大雑把に減っている、という結論を伝える。

一冊まるごとちゃんとスズメの話だけで、きちんと内容がもっている。題材はありふれていて、「なるほど!」というような強い感情は読んでいても出てこないけれど、ずーっとじんわり面白く、話題の尽きない感があるのだ。


2013-12-13

プログラマーとモケイ

プログラマーの仕事はモデラーに似ている、というたとえをふと思いつきました。

必要なものはだいたい揃っていて、とくに最近のキットは出来がいいから、素人が単にパーツを素組みしてもかなりの見栄えのものができてしまう。モデラーオワコン? いやいや、そんなことはない。

プロのモデラーは何が違うかというと、きちんと継ぎ目を消したり、形状を整えたり、ディティールを彫ったり盛ったり……そういうめんどくさくて地味な作業を確実に効率よくこなして作り上げていく。こういうディティールによって、全体的な印象が完全に変わる。やるとやらないのとでは天地の差。

こういう作業手順のひとつひとつは地味だし、実はそれほど難しいもんじゃなかったりする。だが、きちんと全部を、効率よくこなすということが大事。そういう作業スピードや生産性というのは大きい。あと、一部だけ妙に凝ってもだめで、全体的なバランスを考えつつ何をどこまでやるか、どこにどういうディティールを施すかが大事だし、そこにセンスが出てくる。

もちろん、必要なパーツが存在しないこともある。そんなときは、プラ版とかパイプから削りだしたりモールドしたりでパーツを自作することになる。そういうスキルもすごい大事。だけど、できた模型に対して、そういう自作パーツをどれぐらい使うかというと、まあほんのすこしだけ。ぜんぜん必要ない場合もある。必要ないならそのほうがいい。

みたいな話ってプログラマーみたいですねーと、ちょっと思ったり思わなかったり。

まあ、しょせんはたとえ話でありますし、っていうかオレ、モデラーのことぜんぜんしらねーので↑が完全に的外れだったりして。あとキット用のパーツ職人的な人もいるわけですが以下略。



次回は「プログラマーの仕事は料理人に似ている」です(嘘)。

2013-12-12

Nick Bilton "Hatching Twitter" ツイッター創業者たちの愛憎劇



Nick Bilton "Hatching Twitter: A true story of money, power, friendship, and betrayal" を読んだ。

タイトルは訳すなら『ツイッターの孵化』といったところだろうか。鳥がコーポレートアイデンティティであることにひっかけている。

ツイッターのはじまりから、ごく最近までにかけてを綿密な取材をもとに書き起こした本ということになるのだけど、この本の主体は、一癖も二癖もあるような創業者の面々だ。彼らとその周辺の人々が主な登場人物となって、その誕生から成功、さらに権力闘争などが語られる。

ツイッターのそもそものはじまりは、Odeoというポッドキャストの会社にある、と本書ははじめる。Bloggerが買収されて在籍してたGoogleをやめたエヴァン・ウィリアムズ(エヴ)は、ノア・グラスに誘われてOdeoを始める。

やがて、田舎から出てきたばかりの物静かな若者だったジャック・ドーシーや、同じくGoogleをやめたビズ・ストーンがOdeoに加わる。だが、 iTunes がポッドキャストのサポートをはじめるなど強い競合が多く、ポッドキャストのビジネスはうまくいかなくなる。そこで、ジャックのアイディアをもとにノアとジャックで最初期のツイッターが作られる。

だがやがてノアはいろいろ問題を起こし、エヴとジャックが画策して追い出されてしまう(そしてノアの名前はツイッターの歴史からほぼ見えなくなる)。一方、Odeoは本格的にうまくいかなくなったのでツイッターを会社として創業し、ジャックがそのCEOに就任。ツイッターはSouth by Southwestの受賞などで有名になり、どんどん成長していく。

だがジャックもまたツイッターの成長に沿った戦略が立てられず、問題視されてくる。ここは細かくは書かれないが、おそらくエヴの画策などをもとにジャックもまた追い出されてエヴがCEOになる。そしてテレビのトークショーに出たり、政治家も使い始めたり、イラン革命などツイッターは重要性をどんどん増していく。

だがさらにエヴにもまた、急拡大したツイッターをうまくまとめることができず、さらに追い出されたジャックも暗躍し、最終的にはエヴも追い出されてしまう……。

うーん、こうやってまとめるとひどい人たちだなぁ。読んでいても「こーゆー手合とは付き合いたくないな」とつくづく思うようなエピソードが多くてなかなかしんどい。良くも悪くも、少ない人数での濃い人間関係があって、そこに会社の急激な成功による権力関係が入り交じることによるめんどくさい愛憎劇、というのが本書の主題であろうと思う。


そういう意味で、会社としてのツイッターの成長や拡大はどちらかといえば脇に置かれている。イランの話、政治家が使い始めた話、ツイッターがどう使われてきたか、などなどのエピソードはまったく出てこない(追記2013/12/12 22:02:読み返してびっくり。この文章は間違い。下記に補足するけど、その辺の話は出てきます)。サイトがよく落ちてた、というのも言及されるが、それをどうするかというCEOの問題行動の描写として、やっぱり背景的に描かれている。

よくある技術の会社の本は、こういう問題があって、こういう奴が入ってきて解決されて、みたいなストーリーだったりする。プロジェクトXとかはまさにそう。ああいう感動的な物語を期待して読むとちょっと鼻白む。そういう話は一切ない。この本は、創業者たちの(ドロドロした)人間関係の物語なのだ。

(追記2013/12/12 22:02:で、上の追記の補足だが、イランの話や政治家の話などはかなり出てくる。オバマの話やメドヴェージェフ大統領が訪問した話も出てくる。だけど、ここで書きたかったのは、この本は創業者たちの物語なので、創業者と関わりの薄い事件は取り上げられていない、ということ。たとえば日本に関するエピソードはない。日本じたい、エヴが解任されようというときにビズが訪日中だった、というくだりでしか言及がない。ほかにもたとえば、ツイッターの機能といえば、140字の文字制限や、ハッシュタグの話は出てくるけれど、どういう機能がユーザが使っていくなかで発達してきたか、などの言及もほぼゼロ。まあ、そういう本だということです)

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本としては、かなり踏み込んで登場人物の心境をも描いているので、面白いとも言えるし小説とも言えるようなレベルのものもある。そういう意味では、ある種の脚色というか、事実に立脚した物語と言えるような部分もあるだろうと思う。それはそれで悪くない、というか、この本の主題を描くのに向いている。ノアの失脚のパラグラフなど、かなりぐっとくるのだ。
Noah didn't fight because he realized it wasn't power that he had been after when he started Odeo. More than fame and more than fortune, he had just wanted friends.
(拙訳:ノアは戦わなかった。というのも、自分がOdeoを始めたときに求めていたのは権力でなかったことがわかったからだ。名誉よりも幸運富よりも、彼は単に友だちが欲しかったのだ。)
そんなことまで言い切っていいの、と思うわけだが……また、ジャックの失脚やエヴの失脚でも、複数の場所で起こっていることを次々にカットバックしていくことで緊迫感と臨場感を出している。

どうでもいいけど、本書の著者はノア・グラスにはやさしいが(終章でも救いのある終わり方になっている)、ジャック・ドーシーにはとても手厳しい。カバーにある短い紹介でも「メディアに次なるスティーブ・ジョブスと思わせた」とか書いてあるし、終章もなんだかなあって感じだ。ジャックが追い出されたときはエヴが何をしたのかはあまり書かれていないが、エヴが追い出されたときのジャックの暗躍はいろいろと書いてある。

その辺は取材対象の偏りなどに起因する偏りなのかもしれない。

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が、いずれにせよ、お話としてはとても面白い。おすすめです。

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追記 2013/12/18 11:12 --- The Vergeによると、本書のテレビドラマ化が進行中らしい。読んでいても、このドラマチックさは映画っぽいなーとずっと思っていて、最近はやりの映画化も視野に入れているのかな、それにしては紆余曲折が長いかな、とは感じていたけれど、まさかのドラマ化でした。

2013-12-09

ギョウザを作る

自炊記録はだいたいいつもソーシャルメディアに流しておしまいなんだけど、気が向いたのでブログに書いておく。
日本風の焼きギョウザを作った。久々だったがけっこう上手くいってかなり満足。

作り方:

  1. 小麦粉と水で皮をこねる。小麦粉は中力粉、水またはぬるま湯が小麦粉の重量の半分より多いぐらい。某レシピ本によると小麦粉200gに対して水110g。
    • 水を数回に分けて回し入れて、適当にガンガンこねる。はじめは全然まとまってないが、力を込めて潰すと中から水が出てくるので、こねてるとそのうちくっつく。
    • ひと通りくっついたら丸めてラップにかけて10-20分ぐらい寝かせる。水を全体に行き渡らせる効果がある
  2. 皮のもとを寝かせている間に餡を作る
    • 肉は豚肉のミンチ。細切れ肉を買ってきて自分でミンチを作る流派もいるけど、まあ好き好きだと思う。エビとかを入れても美味しい
    • 白菜。適当な枚数をみじん切りにする。切ったものに少し塩をふっておき、肉と混ぜる直前に絞って水分を取るとよい
    • ほかの野菜もみじん切りにする。今回はめんどうなので、あとはニラのみ
    • 分量的には、肉より野菜が多いぐらいでちょうど良い
    • 肉、野菜、香辛料(今回はショウガ。チューブのを使った)を混ぜ、味付けをしておく。醤油、料理酒、ごま油など
  3. 皮のもとを取り出して適当に捏ねる。仕上がったら棒状に伸ばし、端から適当な長さで切っていく。切った玉を手のひらでつぶし、麺棒で伸ばして皮に整形する
  4. 包む
  5. 高温で焼く。底面に焼き色がついたらちょっと水を入れて蓋をし、蒸し焼き風にするといい感じになる
時間はそこそこかかるしめんどい作業(包むとか)が多いけど、工程じたいに難しいものはない。基本的には具材を何も考えずに微塵にして混ぜ、皮で包むだけ。ちなみに、皮はべつに市販のものでも充分美味しいと思うが、自分でこねたほうが楽しい。

ポイント:
  • 皮を自作する場合、やや厚めにしたほうが美味しい。というか市販の皮はけっこう薄く、そうとう力を込めて伸ばさないとあの薄さにはならない。ふつうに伸ばす程度にとどめる
  • 麺棒でのばしていくと綺麗な円形にならないことはよくある。があまり気にしなくても端の形状は包むとわりとわからなくなる
  • 包み方は人それぞれだと思うけど、まず前後の中心を持ち上げてくっつけて、そこから脇に向かってひだをつけながら、というやり方にしている。手前ではなく奥側にひだをつけると包みやすい。と、言葉で説明するのは難しい……
  • 餡はけっこうちゃんと味をつけてしまってよい。そのまま何もつけずに食ってもウマイように味付けをしておく
今度はミルクティ餃子も作ってみたいかも。

2013-11-18

Thor: The Dark World

マーベルの『アベンジャーズ』第2シーズン2作目、「ソー」の映画としても2作目となる『マイティ・ソー/ダークワールド』(→公式日本版公式)を見てきました。

なかなか良かった。個人的には前作の『マイティ・ソー』より好き。

というか、個人的には前作の『マイティ・ソー』は今ひとつだったと思っていて、というのは『アベンジャーズ』の舞台設定のための物語(ひらたく言うと、悪役であるロキのオリジンの物語)になっていて、ソー自身の物語としては浅い気がすること、アスガルドやヨーツンヘイムなどの異世界と地球を行き来する物語にしようとしているものの、地球側のキャラクター(とくにヒロインのジェーン・フォスター)があんまり活躍しないなあというところ。

本作も『アベンジャーズ2』のお膳立て的な面がじゃっかんあるのかなあとは思うものの、ストーリーは比較的すっきりとまとまっていて、ソーそのものの物語として完結しています。また、地球の科学者の面々とアスガルドの物語とが微妙に交錯し、グリニッジでのラストバトルに集結する流れも悪くない。ジェーンはもうちょっと科学者的に活躍しろよという気もするけれど……。そういえば今回は(地球側では)舞台がイギリスで、 S.H.I.E.L.D. の面々はまったく登場しなかった。第1シーズンはやっぱり映画『アベンジャーズ』に集結させるためにいろいろなくすぐりを入れていたけれど、もうその必要がなくなったという面もあるかな。映画としての出来がシリーズの方向性に引きずられすぎてないのは良いですね。

映像的にもなかなか見応えがあり、ファンタジー然とした剣と盾との戦いだけでは終わらないし(それにしてもアスガルドの人たちが盾と剣で迎え撃つのに敵がビーム兵器的なもので攻撃してくるシーンはちょっとシュールだなーと思いましたがw)、にやりとさせられるようなユーモアはふんだんにあり、ファン的には満足の行くものかと。

個人的には、お母さんが活躍するシーンが良かったなあ。なぜか剣を逆手持ち。カッコイイ!

それにしてもソーの英語はけっこう聞き取りづらい。たぶん日常的にはあまり使わない擬古的なかっこつけの単語をバリバリ使ってるからなんだろうけれど。まだまだだのう。

なお、今回はエンドクレジットとスタッフロールが分かれていて、おまけシーンが2つあるので長いスタッフロールでも席を立たぬようご注意。にしても、ちょっとやりすぎな気がするなぁ。

さて、「アベンジャーズ」の次は『キャプテン・アメリカ:ウィンターソルジャー』! これは原作も面白かったのでかなり楽しみです。

2013-11-11

谷甲州『星を創る者たち』



星を創る者たち (NOVAコレクション)

大森望編のアンソロジーシリーズ《NOVA》で掲載されていた「宇宙土木シリーズ」3本に加え、25年ほど前に《奇想天外》誌で書かれていた3編の改稿、さらに完結編となる書下ろし「星を創る者たち」を足した連作短編集。

ざっくりとしたあらすじを書けば、宇宙空間のあちこちで行われる大規模土木工事がいろんな事件・事故に遭遇し、その場の人々が問題に対処していく、というもの。

だが、SFとしての新味というか、斬新さのようなものはない。最初の「コペルニクス隧道」こそ、月の砂という舞台に立脚したガジェットがでてくるものの、この設定はかなり『渇きの海』オマージュであるように思う。それ以外の作品でも、舞台は火星や水星、金星、などなどいろいろと変わるし、起こる事件は大きかったりするのだが、物語や設定じたいは比較的地味であり、すごく斬新に、宇宙であることがポイントとなるような物語には、じつはあまりなっていない。

この本の妙味というべきところはむしろ、巨大プロジェクト系SFというかインサイダーSFというか、そういった部分であろうと思う。時代が未来で舞台が宇宙であっても、巨大プロジェクトを運用する巨大組織のなかであがきながらなんとか物事を先に進めていく人々の物語、として読んだ。

わかりやすい組織対個のような対立構造でもなく、単純にみんなが集まってチームになるのでもなく、巨大な組織とそのなかである個人、というものを描いたSFって最近あんまり多くないかもな、だがまあ良いものだ、と本書を読んで改めて思った。

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などと思って読んでいると、ラスト「星を創る者たち」で完全に足元をひっくり返される感じを味わうのだが……!

正直なことを言って、この展開でこのラストはねえよ、とちょっと思うぐらい急激に「エスエフ」していてすごい。この本のオチをこうする必然性はあるのか?とかいう疑問はあるが、その疑問も押し切るレベル。

2013-11-02

SlimFold という超薄い財布に移行した

財布ネタ。少し前にkickstarterで見つけて支援したSlimFold microという超薄い財布が届いたので使ってます。
空のカード入れと中身入りのSlimFold。SlimFoldのほうが薄い
SlimFoldは、タイベック(特殊加工の不織布)を素材に使用してるのが特徴で、革製のものと比べると異常な薄さと軽さが実現できています。だけどちゃんと耐久性があり、ふつうに財布として使えます。見た目はかなり紙とかそういうものっぽいのがちょっと面白い。

ここまで薄いと、むしろ中に入れるカードの厚さのほうが支配的なので、何が入ってるかによる気もします。ひとまず、前に使ってたマネークリップ兼カード入れより薄いので移行しました。

ただ、アメリカ人がアメリカ人むけにデザインした物体なので(?)、たとえば薄い財布みたいに小銭いれはついてません。お札とカードのみ。しかも今回ぼくが買ったmicroは小型のデザインで、カードは3枚しか入りません(うち1枚はID用なので、実質2枚)。さすがにこれはどうなんだろ?という気はしますが、買ってみたのでひとまずこれで行こうかなと。

むかし財布をなくすことを考えていたところからすると結局もとに戻ったという気がしますが、まあ世の中そんなもんですかね。

なお、サイトでもオリジナル版のSlimFold(でかいけどいっぱいカードが入るっぽい)は$20で売られてます。

ところで隅っこに Designed in California / Made in USA とプリントされているのがちょっと厨っぽいというか流行りなんスかねえ……。

2013-10-31

三沢陽一『致死量未満の殺人』

致死量未満の殺人

Kindleで読んだ。第3回アガサ・クリスティー賞受賞作、とのこと。

15年前、雪山の山荘で起きた女子大生の毒殺事件。その山荘に滞在していた男のひとりが、殺人の時効直前となるその日の夜に、自分の犯罪を告白しはじめる、という筋立てで、回想となる15年前のエピソードと現在のやりとりを行き来するというもの。

ただ、この展開はふつうかなと思う。読み始めてすぐ、まあでもこれだとふつうこういう展開だよな、となんの根拠もないが思っているような展開どおりに物事が進んでいくので、読んでビックリというようなことにはならない。

が、つまらないということはない。よく書けているし、細かい会話に仕掛けが仕込んであるのはうまい。雪山の山荘に大学生が、という、もはや目にしただけで「うえっ」となるような設定の畳み掛けみたいなのを逆手に取っているのも面白い。個人的には、もうちょっと現代パートの登場人物を増やすなど工夫するといろいろ面白かったんじゃないかという気もするのだが、うーん、わからん。これはこのほうが良いのかもしれない。

パッヘルベルのカノンをはじめとするいくつかの見立てというかカッコつけみたいな部分は、個人的にはちょっと鼻につく。というか、カノンがなにをどう象徴しているのかはイマイチよくわからないし、ぼくはクラシックはよく知らないが、パッヘルベルのカノンて室内楽として演奏され、ふつうは指揮者いないんじゃないか。でも、投稿時のタイトルからすると、そっちのほうが作者的にはキモだったのかなあ。うーん……。

などなど。

星5つをマックスとして星3つぐらいかな。

2013-10-30

GRAVITYの宇宙描写がリアルでヤバイ

映画『GRAVITY』を見ました(邦題は『ゼロ・グラビティ』らしい)。

いやー良いですねこれは。宇宙好きとSFマニアはマスト見るべし。言われなくても見るかもしれないけど。それ以外の人が見ても、危機また危機のダイハード映画としてけっこう楽しめると思う。

とにかく、軌道上の描写がすごい。浮遊感、液体やモノの飛び交うシャトルやステーション内、などなど、とにかく描写がリアルで、「CGが綺麗かつ的確だなー」という印象を与える。またステーション内の狭苦しい感じ、スーツの息苦しい感じ、たまに主人公視点の映像になった時の視界の効かなさも表現されていて、その辺もとにかくリアルだなーって感じ。

などなど、とにかくものすごいリアリティ。宇宙空間描写にしても、デブリが飛んできてはじけたり、いろんなものが絡まったり、なかなか掴まれなかったり、ハッチを開けたら体ごとふっとんだり、などなど、細かい描写もことごとくすごい。

さっそく厳密な正確性についての検証は行われているようで、いくつかストーリーの都合上の正確でないところや、いくつかのミスは発見されているようなんですが、検証しているほうとしても、あげつらうというよりは愛ゆえの調査という雰囲気を感じます。

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ストーリーのほうは単純至極でして、やや未来、ハッブル宇宙望遠鏡を修理中のスペースシャトルが、スペースデブリ群に襲われ、なんとか逃げようと頑張る……というもの。登場人物は主人公となる女性科学者とスペースシャトルミッションのリーダーの二人だけ(ほかのクルーはいきなり全滅しちゃう)と少ないし、とにかく話自体はなにもない(ただ、二人の会話はときどきユーモアがあってちょっと笑っちゃう)。

ただ、ここがこうなっちゃったら逃げるしかないから次はこうする、目的地に近づいたからこうする、みたいに何段階かのステージに分けつつ、どんどんトラブルは起こるし、危機また危機で視聴者に息つく暇を与えないので、長さはあまり感じません。

逆に、よくもまあこんなにトラブルにつぐトラブルばっかり起こるね!という、ダイハード感がちょっとあり、こう、その辺はちょっとリアリティが薄いかなという気がする。スペースデブリも襲来しすぎ。ケスラーシンドロームなのか?

リアリティという面でいうと、冒頭にハッブルが登場するほか、国際宇宙ステーションと中国の宇宙ステーション天宮が登場。ただ、スペースシャトルは2011年のSTS-135をもってミッションは終了してしまったので、そこは完全なフィクションになっている(作中でもミッションナンバーを言ってたけど、確か135よりはちょっと大きな数字を言っていた)。

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まあそんなわけで改めてまとめるとマスト見るべしですよ! 日本での公開は12月だったかな。おすすめ。

2013-10-27

ソニーレンズカメラQX100イイ!( ・∀・)

アメリカでは先月末から売られているソニーのレンズのみカメラ、QX100をようやく入手しました。

amazon.comでも微妙な評価だし、ギズモードでも酷評されていましたが、これは個人的にはかなりヨイ買い物でしたね。面白いです!

何が面白いか。ファインダーとなるデジカメと、レンズが完全に分離されている、というのが面白いです。かなり自由度の高い写真が撮れますし、なんというか、これまでにはなかなかなかったユーザ体験です。目で画面を確認しながら手を動かしていい角度をつくる、とかいう楽しみがある。

喧伝されているようにスマートフォンをドッキングさせてデジカメっぽい外見にするのも可能だし、出先では便利な用法だろうと思いますが、個人的にはこれは付加的なものという気がします。キモは、レンズだけのこいつで撮れる、片手で撮れる、ということかなと思いました。

ファインダーとレンズが分離しているので、自画撮りもこれまでではなかなかありえないようなのが撮れます(ようするにレンズのほうを向いてない写真が撮れる)。いやーこれはオモロイすよ。

本体のみでの撮影も可能で、その場合はあとで吸い出すということになりますが、その場で画像の確認はできないものの、これもわりと楽しい。

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難点は(ギズモードの酷評のポイントにもなっていましたが)携帯電話とのコネクションに時間がかかること。起動させるのは比較的簡単で、ぼくはNFCをサポートしている端末(Nexus4)を持っているので、その場合はNFC同士をタッチさせるだけ。そうするとカメラは自動的に起動し、スマホの方もアプリが自動的に起動して接続してくれます。

ところが、アプリが起動してからコネクションが確立するまでに時間がかかる。とくにwifiを使っている関係で、どうやらすでにwifiを使ってネットに接続している場合や、周囲にwifiが飛び交っているような環境では特に時間がかかるような印象があります。長いと30-40秒ぐらいかかってしまいます。短ければ15-20秒ぐらい? 本当に最短であれば、さほど遅いという感じではないんですがね……。

したがって、公式動画のように、道端で面白いものを見つけてさっと取り出して撮る、ということには、ちょっとならないかなぁと思うわけですね。その場合はスマホとリンクさせず、本体だけで撮るということになるでしょうし、もっと身もふたもないことを言えば携帯電話で撮ったほうがよいかも。携帯電話とリンクさせて撮るのは、レストランとかカフェとか、もしくは展望台みたいな、比較的落ち着いたエリアで、ということになる気がします。

それに、携帯電話の画面で確認していると、カクカクすることはけっこうあります。接続がなんか安定しないことが、まあわりとある。

さらに言うと、アプリもすでに完成形って感じじゃなくて、たとえば撮った写真は携帯電話に保存されるのですが、フォルダが通常のカメラとは違うところなので、SNSアプリから複数枚を一度に選ぶのが難しいとか、まあ、じゃっかんのあれやこれやはないとは言えないところではあります。もっとも、新商品の専用アプリとしては、わりと使い物になるレベルなのはいいな、と思いました。NFCで起動とかの楽さもいい。

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あといちおう明言しておきますが、便利、とか、そういう言葉を使うつもりはないです。既存のデジカメやスマホを置き換えたりするようなものでもない。「スマホと一緒に、デジイチも持ちたいけど……」みたいな人にはおすすめしません。それならデジカメ買えば?って感じ。

でもなんというか、まだ昨日買ったばかりだけど、第一印象は「面白い! 何の役に立つのかわからんけどオモロイ!」ですよ。

以下に、ちょっと撮ってみた写真をいくつかあげてみます。

最初にとってみた写真。アノマノカリスのぬいぐるみ+背景はoctocatのマグ

ファインダー自身を撮ると再帰的な写真が撮れる

町並みの写真。これは本体のみで撮影

これも本体のみで撮影

炭家のランチ親子丼。美味しいです

これも本体のみ写真

同じく本体のみ写真




2013-10-23

松崎有理『代書屋ミクラ』 --- 草食系男子の恋愛未満

代書屋ミクラ

読んでいて、この本はけっきょくどういうジャンルの本なのか、というのがわからなくなってしまい、最後までなんとなく温度差を感じたまま読み終えてしまった。読み終えたあとしばらくして、ようやくこれが恋愛小説だったのではないかと気づいた。

いちおう初出のうち一つはSFのアンソロジーでもあり、架空っぽい設定ではあるんだけれども、ストーリーじたいにはとくに超自然性は何もない。いちおうの設定としては、「出すか出されるか法」と通称される法律により、アカデミックポストの人間は一定期間内に書いた論文のIF値の合計が一定量ないとポストを失う(テニュアがない)という厳しい制度が導入された、というもの。主人公はとある大学の近所に住み、その大学の教員から依頼を受け、データをまとめて論文として仕立てあげる「代書屋」というわけ。

だがまあ、全体的にふわふわして浮ついたメルヘンチックな世界な気がする。主人公のミクラは毎度毎度、何かの拍子で出会う女の子に淡い思いを抱きつつ特に何事もなく、やんわり振られたりほかの男に取られたり実は既婚者だということがわかったりする。とまあそんだけの話。

もともとこの設定とキャラは、著者のデビュー作を含む短篇集『あがり』で登場し、そのときは、ミクラの身辺での日常と、教授から渡された研究テーマが微妙にリンクしたりしながら物語が進んでいくという面白さがあったように思う。が、この本ではそういう部分は消えてしまっている。残ったのは、ミクラの身辺の描写と教授とのやりとりだけであり、具体的には女の子が出てきて何も起きないということ、である。

で、それが面白いのかどうかといえば、まあ面白いといえば面白い気はするのだが、こう何度も続けて読むとなんだかよくわからない。恋愛小説であった場合にはミクラに共感的に読むことになり、そう読めば面白いのかもしれないが、うーん、面白いのかなぁ……。

また著者は、人名など固有名詞以外ではカタカナ語を使わないという不思議なポリシーを持っていて、本書でもそれが貫かれている。「麦酒」に「びーる」と(ひらがなで)ルビを振ったり、「自然」という学術誌(ネイチャーのことと思われる)が出てきたり、一方で、「かけんひ」となぜかひらがなで書き下す。おかげで何か不思議な、現実と遊離した世界になっているような気もするが、これがいいのか悪いのか何の意味もないのか、やっぱりよくわからないのだった。

というわけで、一言で言うと、謎。という感じの本でした。

2013-10-21

data URLの標準エンコードはASCII

なんか数ヶ月に一回ぐらい遭遇してそのたびに「あれっ」て思って検索して「ああそうだった」みたいな気分になるのでメモっとく。

data:text/plain,あいうえお などとすると文字化けする。これはバグでもなんでもない。charsetのデフォルトがASCIIだから。

RFC 2397 section2を読むと、メディアタイプを指定しなかった場合のデフォルトは text/plain;charset=ASCII であり、 "text/plain" だけのように charset の指定を省略できる、とあるので、charsetのデフォルトはASCIIである、と読むのが自然だと思われる。

ChromeのOmniboxでの入力はUTF-8のようなので、上の例であれば、 data:text/plain;charset=UTF8,あいうえお などとすればOK。

ちなみになんで data URL を(Base64などを通さずそんな風に)使っているかというと、ちょっとしたことを書きつける際、ブラウザで新しいタブを開いて data:text/html,<textarea> などとしてテキストエリアを開いたり、ほんとにちょっとしたHTMLの断片を表示・確認するのに使っているから、なのでした。けっこう便利よこれ。おすすめ。

シリコンバレーではあまり見ない日本の食べ物

10月上旬は日本に遊びに帰ってました。美味しいものをいろいろ食べました。

さて、日本ではごくありふれているような食べ物だけど、海外にはあまりない、というものはいっぱいあります。
なので、日頃からあぁこういうのが食いたいなぁ、と悶々としているのか、と思われるかもしれませんが、さすがにそこまでではありません。が、何かの拍子にふと食いたくなったりすることはあります。そういうのを心の中にメモしておいて、たまに日本に帰るときに、欲求を満たすわけです。

ただ、どういうものがあってどういうものがないのか、というのは日本にいると見えづらいかなぁと思いました。ないんじゃないか、と思ってるかもしれないけど、実はけっこうあるんだよ、というものもあるんですよね。
そこまで極端じゃなくても、たとえば味噌汁とかは、自分で作りゃいいんですよね。そんな大層なものでもない。日本風のカレーというのも皆無ではありますし、日本に帰ったらやっぱり一度はくっときたいけど、まあ、作ればいいという話もあります。

なので、個人的な観点からこういうのがないよな、というのをちょっとリストしてみようかなと思いました。言うまでもなくこのネタには極めて地域性の高いので、以下ではシリコンバレーに限定してみます。シリコンバレーは海外といっても日本人の人数もけっこう多いので、けっこういろんな店がありますし、日本食スーパーも充実しているので、その点は有利です。たとえば米や味噌、醤油、豆腐、納豆なんかは日本食スーパーで普通に買えます。

あと、書く前にいちおう念を押しておくと、クオリティの良し悪しは(あんまり)問題視しないことにします。下記では寿司がある、という話をしますが、確かにそのクオリティは日本の高級な寿司屋にはかないません。でもまあ、たとえばすきやばし次郎は日本にも2店舗しかないわけで、そういうところと比較してもあんま意味ないよね。そういうことです。

というわけで、「シリコンバレーではあまり見ない日本の食べ物ランキング」!

1. 卵かけご飯

ご存知かもしれませんが、卵はサルモネラ菌のリスクがあるので、日本の国外ではふつう生では食べません。卵かけご飯は完全にアウト。
とはいえ、実はPasturizedという殺菌された卵も売られていて、そのリスクは日本での生卵と同程度であると言われています。個人的には、あまり試す気にはならないけど。

同じ理由により、生っぽい卵には忌避感を感じる人も多いようです。ロス・アルトスに焼き鳥・親子丼のお店がありますが(ここは美味しい)「当店の丼では卵は半熟で出てくるので、ちゃんと火の通ったものにしたい場合はそういうオーダーをしてください」的な但し書きがあったりします。

(追記:20:30 PDT) シリコンバレー地方版による生卵の安全性に関する記事をFacebookで教えてもらいました。実際には安全なのかもしれませんね。まあ自分も↑の店では半熟卵で親子丼食べてますからねえ。

2. 馬刺し

馬の肉はぜんぜん食えません。アメリカやカナダは文化的に馬の肉を食べることについては強い禁忌感があり、場合によっては違法です(というか、合法の場所もある、ぐらいのかんじ。カリフォルニアでは違法)。なので馬刺しは食えません。

マクドナルドのバーガーに馬の肉が混入していたという事件があって大問題になったこともありました。あれがあそこまで問題になったのは、馬の肉だったからです。ウィキペディアには宗教的な忌避感がある、と書いてありますが、宗教は関係ないはずで、欧州でも馬肉を食べる文化はあります。北米や英国の文化なようです。日本人でも、犬の肉を食べる、と聞くと嫌がる人はかなりいると思いますが、まあそんぐらいの忌避感かなと思っていただければ(ナショナルジオグラフィックの記事が詳しい)。

同じ理由により、ノザキのコンミートもありません(まあ別にいらないか?)

3. 天丼とかかつ丼とか

先ほど書いたように親子丼は美味しい店がありますし、牛丼については吉野家がクパチーノにあるんですが、それ以外の丼物はありません。スーパーのコーナーにあるんだけど、さすがにこれはちょっとね……。
てんやとかつやが海外展開してくれると嬉しいです。

4. お好み焼き

お好み焼きや鉄板焼き、もんじゃ焼きなどのお店は全然ありません。最近、マウンテンビューの居酒屋 Bushido でお好み焼きが出るのを発見して、興奮して頼んでみました。食ったら、ま、こんなもんか、っていうぐらいのものですが(そーゆーもんです)。もんじゃ焼きはみたことないですね。

お好み焼きとか鉄板焼きのお店って、ハワイに行くとけっこうあるんですよね。不思議な地域性です。

ただまぁ、それぐらい食いたきゃ家で作れよ、っていう気もしないでもないですね。

5. 蕎麦とうどん

蕎麦屋はありません。日本料理のお店でも、ざる蕎麦とかみたいなメニューは見かけません。蕎麦といって出てくるときは、何か勘違いしたお店が「焼きそば」というメニューで炒めた蕎麦が出てきてびっくりみたいなパターンが多い。

また、根本的に「コシ」という概念が存在してないようなので、仮に日本料理屋でメニューの一部に蕎麦やうどんがあっても、かなりふにゃふにゃな感じと想像されます。美味しい蕎麦やうどんは、店で食べる望みは捨てたほうが良さげ。完全に日本人向けで日本人がやってるお店ならアリかもしれませんが……。

ただこれも、乾麺や冷凍麺なら日本食スーパーでふつうに手に入るので、そこまで緊急性は高くありません。

ないと思われているかもしれないが案外あるもの

逆に、「これは日本じゃないと無理でしょ!」と思われてそうだけどけっこうあるよ、というタイプ。

1. 居酒屋メニュー

居酒屋、シリコンバレーにいっぱいあります。増えてきました。値段もそんなにやたらと高いわけではなく、けっこういいです。味もメニューもわりとふつうの日本の居酒屋です。

2. 寿司

寿司というとカリフォルニアロール、というイメージの人がいるかもしれませんが、あれはだいぶ違います。まあ、あれはあれで美味しいと思うけど。さらにアメリカの寿司は異常進化していて、ドラゴンロールとかの類を視野に入れると、もはや別のメニューと考えたほうがいいでしょう。
そうじゃなくて普通の寿司。江戸前の。そういうやつ。まあ、あります。たとえばパロアルトにある Jin Sho はスティーブ・ジョブズが通っていたといういわくのあるお店です。行ってみたことがあるけれど、まあふつうに美味しかった。

とはいえ、寿司屋はアメリカンスシがメインの怪しい店も多いので、普通の寿司が食える店の情報は貴重なんですが、ぜんぜんないってほどでもないかなあと思います。

3. 焼き肉

最近クパチーノに牛角ができました。牛角かよ、と思うかもしれないけど、悪くないです。ほかにも評判の日本風焼肉屋といえばJubanとかでしょうか(メンロパークにある)。スタイルにこだわらなければKorean BBQの店はさらにいっぱいあります。

4. ラーメン

ラーメン店も増えてきました。クパチーノにある「Orenchi」(俺ん家)が起爆剤と言われていて、種類もクオリティもここ数年でほんとうに向上しました。

ただなんか、最近スープが薄くなっている気がするんだよなー。こってり濃厚は一部の日本人以外にはウケがよろしくないようで、今後の推移がちょっと気になる品目です。天下一品のベイエリア展開が期待されています(主にぼくによって)。

まとめ

前回の帰国の際に豚組しゃぶ庵での馬しゃぶをリストに入れ忘れてました。次は行きたい。

photo: たまごかけごはん by Masafumi Iwai, 101LAB

2013-10-17

吾妻ひでお『アル中病棟』



失踪日記2 アル中病棟

失踪日記2、ということで、アル中になってしまった吾妻先生のアル中病棟の記録を描いたエッセイ(?)まんが。

『失踪日記』も壮絶な面白さがあったが、今回も面白い。個性豊かすぎるいろんなキャラクターの織りなす不思議な共同生活然としたものが描かれる。なにせ登場人物は(病院側以外は)全員ほんとにアル中なので、ほとんど全員が性格が破綻している。

でまあ、「深刻になりすぎないように」というわけでギャグ漫画の体裁になってるのもあり、とても面白い。登場人物が多いので、そのキャラクターを把握したあとで読み返すとはじめっからこうだった、みたいな発見もある。よくできている。

よくできているといえば、読んでもこういう生活っていいよなー、とは微塵も思わないようにきちんと構成されているのがえらい。よく冗談めかしてアル中と呼ぶようなネタがあるけど、やっぱり根本的には洒落になってない世界なのだよなあと思う。それなのにギャグとして成立しているのが、あらためてすごい。

未読なら『失踪日記』もいっしょに。

2013-10-14

日本に帰るときのSIM

休暇で日本に帰っているわけですが、日本に短期的に滞在する際、携帯端末の通信をどうしたものか、という問題があります。

簡単に調べた限りにおいては、これ!という決定打はいまだに存在しないようです。まず、多くの端末は契約が必要であり、海外在住者には便利ではありません。また、滞在者向けの端末や契約もあるにはあるようですが、どうも通話専用のものばかりみたいです。いまどき通話のために携帯電話を持つことなんてあるんでしょうかね。

人によっては日本の携帯電話の契約を維持している人もいるようです(毎月基本料を払っておいて、帰るときにだけ使う)。しかしそれもまたしんどい。折よくT-mobileがグローバルな無料ローミングサービスを発表しました。これも良さそうですが、通信速度が128kbpsというのは、さすがに現代的には厳しいラインな気がします。

今回は b-mobile の滞在者向けのSIMを使いました(1GB prepaidのほう)。おそらく現時点ではこれが一番良いと思います。

使いはじめる際の問題

ドコモの MVNO 事業者はけっこういっぱいあるようなのですが、調べてみた限り、初期費用+月額という料金体系の業者が多いようです。1ヶ月だけスポット的に使いたいという用途には向いていません。

b-mobile はSIMを購入すればそれがそのまま使える、というもので、短期滞在者には都合が良い。英語ページを作って頑張っている上記リンクは、 1GB 使いきり、または14日間のみ使い放題というもので、SIMを挿せば(モバイルネットワークの設定をすると)使えるようになります。

また、追加料金を払うと空港でSIMを受け取ることができます。空港の郵便局に局留めしておくというもので、そこまで行って受け取ることになります。成田空港の場合、郵便局は到着ロビーからはけっこう遠い(到着ロビーは1Fで、郵便局は出発ロビーのある4Fの脇のモールの中にある)のが難点ですが、ほかのSIMに比べれば受取は圧倒的に楽だといえるでしょう。

ちなみに、ぼくもまったく気づいてませんでしたが、1GBプランも実は14日で失効します。なので、この2つのプランはどちらも14日プランであり、違いは「1GB使いきりか、データ使い放題のかわりに帯域制限を受けるか」ということになります。14日より長い滞在の場合は困ってしまうと思いますが、1ヶ月のSIMを買うべきなんですかね……。b-mobileはプランが多数ありすぎて、どれを選べばいいのかは正直よくわかりません。

データ通信およびカバレッジの問題

さて、1GB使いきりプランの場合はフルの帯域が使えるということになっています。ちょっとspeedtestアプリで計測したところ、下り0.93MB、上り0.4MBといったところです。速くはないですが、まあこんなもんかな。ふだんLTEな人からするとちょっと遅すぎかもしれませんが。ぼくは遅くて困ると思ったことはありませんでした。

エリアカバレッジについては、特に気づくほど狭くはありません。実際、直島に遊びに行きましたが、現地ではテザリングをしてたぐらいです(ホテルの wifi が最悪で、テザリングのほうが良かったので)。

ただし、通話機能の関係上(後述)、携帯電話のアンテナ表示が無意味になっているため、ほんとうのところどれぐらい通信が安定しているのかはよくわかりません。変なところや地下の奥まった場所で使ったりはしていないので、きちんとした測定結果ではありません。

通信量1GBというのは(テザリングなどの)無茶をしなければかなり使える量だと思います。ですが、思いきり使えるというものでもありません。ぼくの場合は滞在中の部屋にも wifi があったし、スターバックスで wifi を節約するなどのせこい手をそれなりに使っています。

ちなみにぼくは14日間使って、使用量は800MB程度でした。内訳は端末情報によると Google+ 180MB、Chrome 109MB、テザリング 87MB、facebook + メッセージが85MB、地図 77MB、Play Store 73MBといったところ。Play Storeは自動更新の設定を直し忘れていたので無駄に消費してしまいました。G+が多いのは、ぼくが比較的よく使っていて、チェックインや画像のアップロードに使っているからなので、主要なものがこれぐらいという目安で考えていただければと思います。

通話の問題

b-mobile をはじめとして、データ通信が可能なプリペイドSIMは、なぜか通話の機能が全くありません。そのため、アンテナ表示は常に圏外になっています(が、通信はできる)。

まぁ実際のところ、滞在中に電話をかける必要はほとんどないと思います。ですが、絶対にないとは言いきれない(レストランやホテル、交通などへの問い合わせなど)。ぼくは今回は Skype を使いました。 Skype を使えばふつうの電話番号にも電話をかけることができます。実際に使ってみましたが、特に問題を感じませんでした。金額は1分毎に3.22円(Skypeのサイト内で検索のこと)。

ただし、この方法では電話を受けることはできません。Skypeは月額料金を払うことで電話番号をもらえるんですが、滞在用にこれを使うのは厳しい。ぼくは今回はそれについては諦めることにして、連絡はハングアウトなりfacebookメッセンジャーなりSkypeなりにしてもらう、ということにしました。まあ、わりとなんとかなります。ただし、電話をかけて問い合わせた場合に、相手から折り返し連絡をもらう、ということができません。

まとめ

b-mobileはわりとなんとかなります。使用感が素晴らしいということはないし、いろいろ面倒もありますが、いちおう解決可能なレベルです。個人的には、現時点では一番マシだと思います。

しかし、もうちょっと旅行者にとって使いやすいSIMがあるといいんですけど、どうにかなりませんかね?

2013-10-13

南信長『マンガの食卓』


南信長『マンガの食卓』

これは良い本でした。

古今東西のまんがのうち、料理まんがや食事の場面の出てくるまんがを取り上げ、どういう表現が使われているかを紹介しつくすブックガイド的なエッセイ本。最初の方は雑誌の連載コラムみたいな小気味いいテンポのエッセイといった雰囲気だが(あとがきからすると実際そうだったっぽい)、後半はもうちょっと論評的なものも含まれる。

この種の本としては、それなりに古いまんがも含みつつ、かなり新しいものもカバーするなど非常に視野が広く、また個別の作家についても、たとえば土山しげるを「時折ハッとするような擬音を使うことがあり、やはりタダ者ではないと思わせる」と評するなど、それなりのマニアでも納得できる観点が盛り込まれている。

大友克洋や手塚治虫は食事表現が淡白であったということや、食事という観点からワンピースとドラゴンボールを比較するなど、面白い話も多い。

が……それだけだ、といえばそれだけになっているところが、惜しいといえば惜しい。

本全体として見なおした場合の印象は、各論に終始しているということになる。料理という切り口はあまりにも広く、けっきょく何が焦点の本だったのかがはっきりしない。このため、読み終わってもトリビア的な細部から立ち上がってくるようなものがなく、その結果としてなんとなく掘り下げが足りないように思えてしまうような気がしないでもない。

紹介されている作品点数を大胆に減らして、より掘り下げた本にしたほうが、そういう面では良かったのかも、という気はする。というか、ぼく個人はそういう本のほうが面白く読めたのかも、と思う。

とはいえ、点数の多さ、視野の広さ、古典と新作のバランスなど、ブックガイドとしてはレベルが高い。

2013-09-26

Marvel's Agents of S.H.I.E.L.D. 見た!


ヒーロー映画『アヴェンジャーズ』のスピンオフTVドラマシリーズの Agents of S.H.I.E.L.D. を見ました。アヴェンジャーズにも出てきた支援組織 S.H.I.E.L.D. の人々の活躍を描いたシリーズ(の予定)。つい先日、第1話が放映されたところで、さっそく amazon にも来てたので見た次第。

アヴェンジャーズの映画シリーズでは小物っぽい感じでちらほら出てくるエージェントコールソンをリーダーに、スーパーヒーローの能力を持たないエージェントたちがさまざまな超常的な事件に対処するというドラマ(になる予定)。

いや、良かったですよ。第1話だけで結論を出すのは気が早いけれど、各キャラを紹介し、作品世界を紹介し、超常能力にもとづく事件が起きて解決し、敵っぽいヤツもちらりと登場させ、というひと通りのことを45分かそこらでやって見せる手際の良さ。それでいてストーリーも悪くない。

先も楽しみです。

あと面白いなぁと思ったのは、この話は当然『アヴェンジャーズ』のストーリーは全部あるというのが前提になってるってことですかね。冒頭の次のセリフはいい感じで微苦笑。
A little while ago, most people went to bed thinking that the craziest thing in the world was a billionaire in a flying metal suit.  Then aliens invaded New York and were beaten back by, among others, a giant green monster, a costumed hero from the '40s, and a god.
などなど。

が、いっぽうで……いっぽうで、やっぱりどうも思うところもある。スノーデン事件以降、やっぱりこういう「国家の運営する諜報機関」というものを見る目というものが、少し変わってしまったことを自覚する。S.H.I.E.L.D.ってモロにアメリカの秘密機関だしね。S.H.I.E.L.D.のHはhomeland(国土)のhなのだ(少なくとも本作ではね)。

フィクションのほうは何も変わりない。見る側の意識が、すこし変わったのかも。ただまぁ、ドラマはそういう難しい問題には立ち入らず、楽しく見られる娯楽作品となると思うので、そういうふうに期待します。

2013-09-20

『ヴィンランド・サガ』[13]



『ヴィンランド・サガ』[13]

ついにトルフィンがレイフと会い、ヴィンランド行きを決意する巻。いっぽうでクヌート王は軍勢を率い、ケティルの農場側とついに戦争に突入する。

本巻でついにトルフィンは父の意を継いだ戦士として覚醒し、争いから隔絶した楽土を作るということでヴィンランド行きを決意する。このシーンは感動的であるものの、同じく戦いを体験して悲観から自力での地上の楽土を作ることを決意したクヌート王とかぶる。というわけで、ようやく北海帝国のクヌート王とトルフィンという近い時代の人物をうまく組み合わせて対比させるというこころみがわかってきて、物語が重層的になってきた。

トルフィンにせよクヌートにせよ、この作品のキャラクターたちはみな歴史上の人物であり、ヴィンランドの入植や北海帝国の行く末については実は決まっている。もちろん作品自体は歴史ものというよりはフィクションであると思われ、物語の内容は様々な歴史的事実やトルフィンについて描いたサガのなかみなどとは、おそらく完全に整合することを目的としていないと思われる。とはいえ、細部は異なったとしても大筋の流れを変えることはないだろう。そんでもって、彼らの決意は、残念ながら、意図したような結果を残さない。トルフィンの入植は最終的には放棄されることになるし、クヌート王は41歳で死に、北海帝国はその後すぐに崩壊してしまう。

が、それがどう語られるのか、というは今後の楽しみだ。

2013-09-14

アメリカに来て1年経った

昨年9月8日にアメリカに来たので、いつのまにか1年が経過していました。

長いような短いような感じです。1年間を振り返ってみて……まあ、とくになんの感慨もないのですが、ひとまず、なんとか、生きて行けているようです。この1年、どんなんだったかというと、

日常生活

まあなんとなく安定しているようです。基本的にインドア派だけどテレビとかは見ないという人間なので、それほど日本とかわりない生活が、それなりにできているように思います。日本語の本は、輸入することになるので、高いけど。

飲食物については、事前にわかっていたことではありますが、とくに問題なく過ごしています。日本でないと食べられないようなものというのもたまにありますが、そういうのはたまに日本に帰った時に食べればいいかな、という感じ。あと、学生時代にやっていた料理みたいなことを再開しています。

体重は微増。日常的には増減なしなんですが、たまに何かあったりすると、そこで増えたまま戻らず、みたいなパターンですかね。アメリカの食べ物は基本的に日本よりずっと多いので、多少は注意しています。平日、会社で食べると量の調整が効きやすいのは良いですね、といってもあんまり制限してませんが。

仕事

仕事内容は東京にいたときと基本的には変わらないわけですが、まあまあぼちぼちやっていけているようです。内容自体はたいして変わってないですが、環境にはじゃっかんの変化はあり、こちらでの仕事は気に入っています。環境といえば机も立ち机に切り替えましたし。

英語

英語のはなしは最近ホットですねw
英語については、上達したなあという面もあるのですが、大してうまくなってないなあという面もあります。聞く方の能力は、まあまあ向上したかなという気もしますが、しゃべる方はどうでしょうか。デタラメでも案外通じる、ということがわかっただけかもしれません。日本にいるガイジンと片言の日本語で会話したことのある経験があればわかると思いますが、片言でもそれなりになんとかなるわけです。

あとなんか自分の英語の能力が低いところでサチっているんじゃないか疑惑というのもありますが、さてはて。

知己

こっちに来たばかりの頃はマジで社外の知り合いはなきに等しかったのですが、それなりに知り合いもできてきました。根が引きこもりなので、知り合いネットワークが広がっているというほどでもないですが。ともあれシリコンバレー、あんがいと日本人も多いです。

クライミング

ロッククライミングといえばヨセミテが聖地なんですが、まったく行っていません。というか外岩にはまるで出かけていません(それなりに岩場はあるようですが)。でもまあそれなりの頻度でクライミングジムに行ってボルダリングをしています。こちらのグレード表記(Vグレード)にも慣れました。でもまぁあんまり上達していません。

今後の抱負

ええっと、なんだろう。まあこの調子でのんびり行きたいな、と思っています。もうちょっとあちこち近場に出歩くのもいいかな。

まとめ

ぼちぼち生きてます。

2013-09-10

2006年のウェブとこれまでの7年

2020年東京オリンピックということで、これから7年後のことについ思いを馳せるのは人間の性みたいなものだし未来について思うのもいいことだと思う。

が、そういうことはいろんな人がちゃんとした見解を述べてくれると思うので脇に置くとして、この7年間のウェブはどう変わったんだろう? ということがふと気になった。今から7年前、2006年のウェブとはどんなものであったか?

振り返ってみよう。

まずはオリンピックを視聴するという観点から動画サイトってどうだったっけ、というのを考えてみると、YouTubeの設立は2005年だから、もう存在していた。でも雰囲気はだいぶ違っていたように記憶している。2006年ころにはアニメやテレビ番組の動画がアップロードされまくっていた時期かな。当時、こういう動画共有サイトに公式動画を上げるという考え方はなかったと思われる。著作権クレームもなかったし、パートナープログラムのようなものもなかった。Googleに買収されたのが2006年9月。

ニコニコ動画は会社設立は2006年12月のようだが、YouTubeの上にオーバレイするサービスがはじまったのは2007年とのこと。つまり当時はニコ動はなかったわけだ。ほかの動画共有サイトはだいたいもっと新しい気がする。Vimeoなど2011年発だから後発もいいところ。

じゃあネットで番組とか見られなかったのか? もちろん見られた。当時は GyaO! みたいなサービスがあった。

ソーシャル面では、当時の日本はミクシィ全盛時代。イー・マーキュリーが株式会社ミクシィに社名変更したのが2006年。twitterの設立は2006年9月だったようだが、2006-2007年ころはまともに日本語は使えず、日本人ユーザもいたが、日本語で投稿するための方法を模索していたぐらい。

facebookが「学生専用」というのを外してだれでも使えるようになったのも2006年9月のことのようだ。ニュースフィードが登場したのも2006年9月で、それ以前は「友達のウォールに書き込む」という文化だった。Googleはorkutを運営していて、インド人とブラジル人に専有されていたのはこのころ。言うまでもなくLINEはない。

はてなブックマークは2005年から存在していた。2ちゃんねるも、もちろんあった。電車男が2004年。2chコピペブログの歴史はしらないけれど、「痛いニュース」の最初の記事は2005年12月3日だったようだ。はてな匿名ダイアリーが2006年9月にサービスイン。この辺の人たちのネット利用形態ってそれからずっと変わってないってことか……?

WindowsはXP全盛時代、Vistaがリリースされたのは11月のことだったが、評判はあまりよくなかった。Mac OSXはTigerの時代。ブラウザとしてはChromeは存在しておらず、普通のユーザはもっぱらIEを使っていたということになるだろう(MacならSafariだったかなぁ。ぼくはFirefoxかCaminoを使っていた気がするが……)。

iPhoneはまだなかった。Androidもなかった。スマートフォンというのは、Blackberryみたいな、細かいフルキーボードのついてる携帯電話のことで、利用者はものすごく少なかった。あぁWindows CEというのもありましたね……。ふつうの人は i-mode とかを使ってケータイ向けサイトを見てた。ケータイ向けサイトといえばケータイ小説が流行ったのもこのころかも。恋空は2006年に書籍化。

---

ようするに、この7年間で、ネット利用環境は激変したといって差し支えない。書き連ねればもっとあれこれ栄枯盛衰があると思うけれども、やりすぎるとジジイの繰り言になるので(すでになってるが)これ以上は書かないことにしよう。

さて、7年後のネット利用環境はどうなっているだろう? 人々はオリンピックをどう視聴し、どう共有しているんだろうか? おそらく何もかも変わっているだろうと思う。今では影も形もないようなデバイスを使い、まだ構想されてもいないサービスを使っているはずだ。

そうなることを期待したい。

2013-09-09

シリコンバレーの外国訛り

+Yoshifumi YAMAGUCHI の翻訳で「英語は私にとって15年にわたって悩みの種です」を読み、原文とPaul Grahamの問題の文章をざっと眺め、id:yomoyomo氏のPGの文章の訳も読んで、こころに浮かんだモヤモヤを書き下しておきたい。

シリコンバレーへのニューカマーであり、英語が得意というわけではない(婉曲表現)自分ではあるが、正直なところ、ぼくはあんまりこの Antirez 氏の文章には共感できない。PGの言わんとしていることのほうがよくわかる。

本題に入る前に、ざっと自分がどう読んだかを書くと、PGの文章はスタートアップのファウンダーにとっては強い外国訛りが不利になる、という話である。その理由として、周囲の人間が何を言っているかすぐに理解できないというのは、周囲にアピールすることの多いファウンダーにとってはけっして好条件ではないからだ。

いっぽう Antirez は、15年かけて英語もなんとかなってきたけど、やっぱりしんどいのは確かで、外国訛りで聞き取りにくいとかそんな理由で閉じこもるのはまずいと言う。そして、そういうふうに発音という面で崩壊している英語っていう言語はどうにかならないのか、というか、どうにかすべきなんじゃないか、と言う。

ぼくはPGの文章に理解を示したので、個人的にポイントだと思うところを強調してある。言うまでもなく、PGが拠点としているシリコンバレーはものすごく外国人が多い。ビザ持ち、グリーンカード持ち、市民権は取得したけど外国生まれ、そういう人たちで溢れている。サンノゼ市の人口統計によれば最大多数の人種はアジア人(中国などの東アジア系とインドなどの南アジア系を含む)だそうだし、サンノゼで一番人数の多い姓はベトナム系だと聞いたこともある。そういう環境なのだ。

ぼくはPGとは会ったこともないから断言はできないが、そういう環境では、相手が多少は訛っているぐらいはどうっていうことはない。アメリカ生まれのネイティブ・スピーカーのほうが会う率は低いかもしれないレベルだ。正直、自分の英語はかなりひどいと思うが、それでもある程度やっていけるのはこの環境だからというのがある。

だが、そういう環境だからこそ、尋常じゃないほど訛りのきつい人というのもけっこういる。自分の周囲にも、かなり訛りのある中国人もいるし、前はマネージャーがフランス人で、フランス訛りの英語は正直たまに何を言ってるのかわからないこともあった(単語の発音がことごとくフランス風なので……第二外国語がフランス語でちょっと助かったと本気で思った。いい人なんだが)。それでも、従業員である分には、まあなんとかなっていると思う。だが、ファウンダー、しかもあちこちにアピールしなければならないような(PGが相手にするような)初期のスタートアップでは、まあ、しんどいというのは確かなのではないか。スタートアップをやろうという熱意ある若者では、言語の学習がおろそかになっている人も多かろう。

そして Antirez 自身も書いているが、慣れていない第二言語を使うときは、ときに性格すら変わってしまう(ように見える)こともある。どんなに外向的な人でも、うまく言葉にできないというのに他人に話しかけたりはできない。それもまた、ファウンダーとしては不利なポイントになる。言いたいことは母語ではあるんだけど、英語でなんていうかわからなくなったりする。難しい概念や婉曲表現、こみいった言い回しをうまく英語でしゃべれないので、深い話ができない。こういうのは、 instead のあとに of を入れ忘れるとか、そういう可愛い話じゃない。

Antirez はイタリア在住だそうだが、ぼくの勝手な推測では、中国人やインド人と英語で仕事をした経験があまりないのではないか。たとえ外国語として英語をしゃべっていても、同じような文化の人間のしゃべる英語と、まったく違う文化圏の人のしゃべる英語はかなり雰囲気が違うものだ。多くのイタリア人が他のイタリア方言を聞き取るのがさほどしんどくないと言うが、話者人口とそのダイバーシティは関係していないか?

また実際問題として、ネイティブであるほうが聞き取り能力も高いと思う。インド英語も、ぼくにとってはちょっときついというか異質すぎるなあと思っていても、英語ネイティブな人はさほど問題なく聞き取れていたりする。そういうもんである。そしてシリコンバレーの人々は、かなり外国の訛りには寛容なほうだとぼくは思う。むしろ、そういう人ですら「これはちょっとまずいかも」と思わせられるようなレベルの人、というのがゴロゴロしていてそういう人の話なのだ、というのが、わかってないんじゃないかな、と思ったのだった。

これは英語という言語の問題というより、むしろそれがリンガフランカとして発達しているから、すなわち世界中あちこちの、まったく異なる文化の人々が学んでいるから、という点と関係がある。だから仕方ないとも言えるのではないかと思う。こういう多文化な人々が話す言葉が、ひとつの発音大系に収束するなんて、そんなのありえなくね?というのが個人的な雑感。

あと、彼の論点には、綴りと発音がまったく対応していないという問題が含まれている(というか、 accent と単語の発音の問題を混同している)。確かにその面で英語は壊れた言語なのだが、訛りの問題とそれとは、別の話だろうと思う。

2013-09-04

stand-up desk はじめてみました

※イメージ曲を適当に貼り付けております

会社での仕事環境を、最近なにかと話題の stand-up desk に切り替えてみました。健康にいいとかどうとかみたいな具体的な理由があるわけじゃなくて、なんとなくかっこよさそうだったから、といった程度の理由なのです。その向こう側になにもなくても構わないかもしれません。

東京にいるとき、この机にしている人はほとんど見かけなかったのですが(なくはなかったけど)、こちらではなんか流行っていて、ぼくの周辺では1/3〜1/2ぐらいの人が何らかの stand-up desk で仕事をしています。まあ単なる会社内流行、またはチーム内流行だったりするのかもしれませんが。うちの社内では、申請すれば机ごと入れ替える感じでスイッチできます。

切り替えて一週間ほどですが、まあ今のところ悪くはないです。後悔した、とか、戻したくなった、といったこともなく、ふつうに立って仕事をしています。いい感じです。

よくある質問に対する答え:

Q. ずっと立ちっぱなしなの?

A. いいえ。
デスクには椅子は残っています。デスクのほうの高さを自在に調節できるか、もしくはスツールみたいな高さの椅子が配備される感じです。周囲を眺めてみても、半分ぐらいの時間は座って仕事をしているように見えます。
あとぼくは、たとえばお茶を淹れにミニキッチンに行くついでにその辺の席で座って軽く休憩、みたいな感じで、適当に座りつつやっています。
「立ったままの仕事もできるデスク」というほうが正確かと思われます。

Q. 疲れない?

A. まあ実際、疲れるっちゃ疲れます。一日が終わると、足がいたくなったりはします。
とくにぼくはまだ入れ替えて一週間といったところなわけですが、こういうのは慣れも大きいでしょうし。
あとマットを買いました。ちょっと高いけど(ちなみにこれは自腹)、 "Stand-up Desk Heaven" というアツいレビューに負けました。足の負担がかなり軽減されそう。これもいい感じです。

Q. 座って仕事するよりもむしろ良いよ、っていうところある?

A. うーん、なんかあるかな……。
今のところは、よくわからないですね。姿勢は良くなりそう。(立ったまま暇つぶしとかする気にあまりなれないので)仕事には集中できそう。……でもまあ暇つぶしを全くしないかというと、まあ正直、立ってようが座ってようがすることはあるよね。うむ。

Q. 切り替えて悪くなったこととか、ほんとにない?

A. まだ一週間なんでアレですが、いまのところありません。
構造の関係か、姿勢の問題か、机がちょっと揺れやすくなったかなぁ。まあそんぐらい。

Q. ほんとに健康にいいとかメリットあったりするの?

A. 知りませんし、あんまりその辺は興味ありません。

Q. っていうかなんで流行ってんの? なんなの?

A. やっぱなんかちょっとかっこいいからじゃないでしょうか。

2013-08-29

風野春樹『島田清次郎 誰にも愛されなかった男』



島田清次郎 誰にも愛されなかった男 読みました。いやー面白かったですよ。読みはじめると途中で休むこともできずその日10時間近くの予定を滅茶苦茶にして一気に読んでしまった……というほどではないですが、わりとすぐ読んでしまいました。

島田清次郎は大正時代の作家で、弱冠二十歳で刊行した自伝的小説『地上』が大ヒット、シリーズ4冊で累計50万部以上というすごい記録を出し天才と呼ばれるもスキャンダルによって失墜し、のちに精神病院に入院してそのまま31歳の若さで肺結核で亡くなり、いまではほとんど知られていないという、ものすごい経歴の御仁。この本は、様々な資料にあたりつつ、そんな島田清次郎の一生を丹念に追いかけて描き上げた伝記です。

この本の面白さというのは、もちろん第一には島田清次郎という人間じたいの面白さ、そのあまりにも数奇な人生というのが挙げられます。何しろ副題が「誰にも愛されなかった男」というぐらいで、誇大妄想的な思いあがりと、その小説の願望充足っぷりがことごとくすごい。たとえば、ひとりインフルエンザに感染し寝込んでしまい、同郷の先輩(すでに仲違いしてた)に「人は冷たし、木枯らしは寒し、これまでの態度は悪かったから看護に来てくれ」と助けを求めるというくだり。それで人のいい事にわざわざやってきて看病してくれた先輩に向かって「貴様は同郷だから出入りを許してやるのだ、我輩の看病をさせてやるのをありがたく思え」と言い放ったらしい。いろんな意味でありえないというか、こんなやつ知り合いにいたら絶対いやだな、というのを超越してむしろ笑いが出てくるようなエピソードだらけです。

だが、この本の面白さは、そういう無茶苦茶なエピソードに寄りかかっただけのものではないですね。様々な人間が関わりあい、あちらこちらで意外な関係が飛び出す島田清次郎の人間関係をうまく描いているのも良いのですが、それに加えて個人的に面白いと思った点がふたつあります。

この本はおおむね7つの章で島田清次郎の人生を描き出していますが、大雑把に2つのパートにわかれるのではないか、と思っています。スキャンダルまでとそれ以降では、筆致もすこし変わるし論点もすこしシフトしてくる。

前半部分は、とにかく様々な資料をもとに半生を浮かび上がらせるということに注力していて、新聞記事などの資料に加えて関係者の回顧録、作家の私小説やエッセイ、島田清次郎自身の随筆や小説内の描写さえも使って、様々な事実を明らかにしていきます。しかし、ぼくはこういう作家の伝記をあまり読まないからかわからないんですが、なんていうか描写が新鮮なんですよね。自身の随筆や小説に脚色が施されているのはもちろんですが、関係者の回顧録にしたところで、清次郎が精神病院に入院してそのまま頓死したということを知った上で書いているものなので「今にして思えば」という気分はどうしても拭えないし、他人の私小説やエッセイとしてもある程度の脚色や創作は含まれてしまう。これと、事実ベースの新聞記事の引用などが併置される。これがなんというか、ちょっと不思議な読書体験だったと思うのですね。虚実ないまぜというのとも違うのですが、こう、虚構から事実を浮かび上がらせ、事実と虚構を併置するというのは、ぼくには新鮮でした。

また、たとえばベストセラーの処女長編『地上』については、出た途端にあちこちで絶賛評であるとか、清次郎の思い上がった言動が知られるに連れて「文壇」から嫌われるようになっていく、といったわかりやすい展開をなぞりつつも、実際にはいろんな考えの人間で構成されている人々である以上、評価や判断基準もわりといろいろである、といった点を忘れず、わかりやすい展開にいわば適宜ブレーキをかけつつまとめていくという手法が、ちょっと独特に思えました。

そして後半部分については、著者である風野さんが現役の精神科医であるということが生きる展開となっています。つまり、思い上がりがこうじて「狂人」と呼ばれるようになり、とくにスキャンダル以降にその傾向が強まった以降の彼の扱われ方、大正時代の精神病院のありようや、当時の病状の認識への見解。また入院中の清次郎の活動を追うことで、彼の病状を推し量ったりもします。スキャンダルから清次郎のことを「DV加害者」と断じ、解説する手さばきの良さや、院内で書かれた文章の分析などには、ただの伝記書籍ではありえない面白さがあります。

読む前は、風野さんっていろんなところでも書評を書いたりしているわけで、精神科医という本業についてはあえて惹句に含める必要があるのかな、と不思議に思っていたのですが、この後半部分を読んで、なるほどと納得した次第。そしてだからこそ、「島田清次郎は本当に天才だったのか、本当に狂人だったのか」という問いかけに対して、読者が納得のできる答えを提示できています。

そしてまた、「中二病のカリスマ」と評したあとがきにも納得感をもって読むことができるわけです。

風野さんは知り合いなのでちょっと褒め気味に書いてしまっているかもしれませんが、おすすめです。

2013-08-27

twitterの不正アカウント市場の調査と対策に関する論文

USENIX Security Symposium で発表されたらしい Trafficking Fraudulent Accounts: The Role of the Underground Market in Twitter Spam and Abuse (PDF) という論文を読みましたが、かなり面白かった。

twitterやFacebook、Googleなどについてニセのアカウントを大量に作って販売している業者がいるらしい。で、実際に twitter のアカウントを販売している業者27社と1万を超えるアカウントのやりとりをすることでその実態を調査しました、彼らのやり口に対する対策について検討しました、という論文です。著者の一部が twitter の中の人であり、twitter の内部情報がないとわからないようなデータにもとづいて業者の傾向なんかも分析していたりしています。

詳細は原文で当たってほしいところなのですが、個人的に面白かったポイントとしては、

  • Facebook や Google のアカウントも売られている。 Phone verified account といって、実際に電話での本人確認を済ませたアカウントというのもあり、それは割高。ウクライナやエストニアの電話番号が紐付いている
  • あまり「同一のIPアドレスから多量のアカウント作成」のような単純な手口は取っていない
  • 登録時のIPアドレス(内部情報)を調査したところ、上位10カ国はインド、ウクライナ、トルコ、タイ、メキシコ、ベトナム、インドネシア、パキスタン、日本、ベラルーシ。日本入るんだ……
  • ただし最多のインドでもたった8.5%、上位10カ国をぜんぶ足しても過半数にならない。それぐらいバラバラ
  • CAPTCHAは機械的に解いている業者と人手でコストをかける業者とがあるっぽい。twitterは同一IPから多数のアカウント作成をするとスロットリングされてCAPTCHAも必要になるとのこと
対策案としては、けっこう後ろ向きで、ようは作成のコストをかけさせるには、といった話。コストがかかればそれだけ単価も上がり、商売としてもやりにくくなる、という理屈みたい。たとえばよくあるような手間をかけさせる手段であるような、メールで確認したり、CAPTCHAをやらせたり、SMSで認証させたり。これらの手法はそれぞれ単価を上げる効果がある。たとえば、メールの場合は、認証するためのメールアドレスというのも、hotmailとかmail.ruとかのアドレスをどこかから購入するので、その分のコストが単価には反映せざるをえない、といったふうに。

論文後半は、登録時に業者っぽいアカウント作成パターンを自動検出してBANする方法について検討しているんだけど、やりとりしていた業者に特有なアカウント名や姓名などのパターンって言っていて、あんまりいいアプローチじゃないんじゃないかなぁ、と思った(このへんはきちんと読んでないので誤解しているかもしれない)。ただ実際にはかなりうまくマッチしたみたいで一瞬、業者を営業停止に追い込んだみたいだけど、2週間ぐらいしたら戻ってしまいました、みたいなことが書いてあったり。いたちごっこの感は拭えないかも。

2013-08-24

『シュガー・ラッシュ』見たけど……

Wreck-It Ralph (邦題『シュガー・ラッシュ』)見ました。 Play Store でレンタルできたので。けど、うーん、まあまあ、かな、という感じ。なんか世間的にはえらい好評っぽかったけど、個人的にはノレなかった。

個人的にあまり気に喰わなかったというかノレなかったのがなぜかというと、ストーリーの根本的なところで、いくら「共演者」とうまくいかなくなったって、本来禁忌とされている「他のゲームに行く」ことをして、そのゲームプレイをぶち壊しにしていて、みたいな冒頭の展開がどうも引っかかったからだ。でしかも、最終的にシュガー・ラッシュの世界が崩壊の危機に瀕するわけだけど、その原因て、ようはお前じゃん、みたいな気分が見ていてずっと残っていて、どうもなんか白けてしまった。

そういうヒネた目で見ると、シナリオには疑問がいくつもある。ラルフはたしかに作中で活躍をするんだけれども、べつにそれと悪役としてのアイデンティティはとくに結びついていない。作中でもFix-it felixの登場人物たちとは別に和解してない。それでこのハッピーエンドってなんなんだろう?とかさ。子供向けのわりにはけっこういろんな展開があって複雑なシナリオだな、って思ったけど、後出し的に考えてみたら、ようはそれってシナリオが練れてないっていうことなんじゃないかなぁ。

もちろん、いいところもいっぱいあるんだよね。やっぱり冒頭の悪役ミーティングはいいなって思うし(とくにザンギエフがいい。っていうかお前悪役だったっけ?という疑問を吹き飛ばすいい立ち位置)、フェリックスとラルフの関係性とかも面白い。見ているときはなんとなく感動するような結末ではあり、つまり映像の力はある。

けどなー、と思ったのでした。

あでも、Fix-it felixの登場キャラたちが(古いゲームなので)カクカク動くところとか、超いいよなー。やっぱり映像の力はある。

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さらにイチャモンをつけるかぎりつけてみるなら、30年間ずっと稼働してるような人気ゲームだったら続編ぐらいできているべきだろうし、やっぱそういう続編となれば、ラルフが主人公になって建物をうまいこと破壊して大切なものを助ける、みたいなのも出てると思うんだよね。

2013-08-20

「男も読める少女まんが」麻生みこと『海月と私』と男の純情



麻生みことの新作『海月と私』(1巻)が出ました。紙版と電子版と、同時に。素晴らしい! もっとやれ!

この作品、非常に「らしい」し、「男も読める少女まんが」ってヤツだなぁとつらつら思うので紹介してみたいと思います。ちなみに、第1話はウェブ上で読めるようになっています。

基本設定はこんなかんじ。父のやっていた片田舎のひなびた旅館を継いだ主人公(もうかなりオッサン)。ところが、父の代から手伝ってくれていた仲居さんがとうとう往生してしまう。もう春にはたたんでしまおう、それまでの間に……ということで仲居を募集したところ、田舎には似合わない妙齢の女性が押しかけるようにやってくる。で、毎回そこで巻き起こる客の恋愛であったり人間模様であったりというのを、この仲居さんが引っ掻き回す、という体裁のコメディタッチな展開です。

この仲居さんのキャラが立っていてイイ感じなんですよね。いっけんか弱く見えても実はけっこうしたたかで、周囲を引っ掻き回しつつ結果的には物事が丸く収まる、といった展開がうまい。一方で主人公のほうは、かつて銀座で板前をしていたという、もう人生を達観したようなおじさんで、できれば客の個人的な問題には立ち入らないようにしたいのだけれども、仲居さんの行動にころっと転がされてしまっていたりする。

第2話のオチがいい感じですね。この後の主人公の愕然とした表情とのギャップが本作を象徴しています。



ところで、この作者、実はこういうタイプのキャラクターを多く描いている気がします。後先かまわず周囲を振り回すタイプの、いっけんか弱く見えるが実はけっこうしたたかに現実を見て生きているような女性キャラクター。たとえば、『そこをなんとか』のらっこちゃんや『Go! ヒロミGo!』のヒロミの姉などがそうですね。また、落ち着き払っているようで案外そうでもないようなひなびたおじさんというキャラクターもけっこう多いように思います。

もちろん、こういうキャラクターのコンビネーションてのは、読者層を念頭に置いているのも確かなんでしょうが(『路地恋花』もそういう話が多かったし……そもそもリア充肉食系男子はどうせこんなものは読むはずもないので)、この作者としてはある種の王道的な組み合わせでもあるし、対比がとても効いている設定だなあ、と読んでいてつくづく思いました。まあ、ぼくが個人的にこういうのが好きだというのもあるんですけど、たぶんきっと。

そして、このキャラ設定は、「男も読める少女まんが」として本作が成り立っているキモでもあるなと思いました。こういう女性キャラクターは内面を描いてしまうと台無しというか、少なくとも違ったストーリーになってしまう。そういうわけで視点人物としてはコンビの片棒をかつぐおっさんが導入されていて、視点人物の内面をきちんと描くことで、男の読者が感情移入できるような仕組みになっている。ただし、手法としては少女まんがらしい手法を採用している、とも言える。もちろん、「男も読める少女まんが」であるから良いとも悪いとも言いがたいのだけれど、そういう分野の作品として、とても成功していると思いました。

先が楽しみです。

2013-08-13

facebookの偽アカウントスパムの問題について

よく話には聞くけれども、僕にも来ました。友達の名前と同じ偽アカウント。比較的ありそうな名前であるので、実際に引っかかってしまった人もちらほらいました。

いい機会なので、この件についていろいろ考えてみました。

偽アカウントとは何か

いろいろ呼び方があるみたいですが、とりあえずここでは「偽アカウント」と呼んでいます。最近はほんと増えている気がするので、「ああ、あれね」とわかった人も多いんじゃないかとおもいますが。

たんに「偽」といえば、もちろん本人ではないということですが、ここでいう場合は(おそらく少数の)業者が何らかの理由で乱造しているアカウント群のことです。男性のしょうもない心理を利用するために、女性の名前を使っていて、多数の男性に無差別に友達申請を行なっていると考えられています。

「彼ら」をおそらく少数であるという推定をしているのは、手口がしだいに変化しているからです。

実際のところ、偽アカウント自体はけっこう前からありました。とはいえ、わかりやすいのは架空の女性を名乗って男性を釣る「釣りアカウント」のようなものだったとおもいます。もっと最近になっての例としては、当初「彼ら」は適当な女性の写真(ネットアイドルや、そういう写真サイトなどから拾ってきたもの)を使っていました。また、同姓同名のアカウントを大量に使っていました(たとえば→この記事は2012年9月でした。同姓同名同写真のまま大量に友達申請していたりしていました。そんな時期もありましたね……)。

今年に入ってから、若干の変化がありました。まず、アイコンに女性の写真を使うのをやめ、アニメや漫画のマスコットキャラなどのプロフィール写真に変わったようでした。また、性別は男性でした。

性別を男性としている理由については、異性への大量の友だち申請がfacebookによって規制されている、ないしはスパムの自動検出に引っかかりやすいからである、という説を目にしましたが、真偽は定かではありません。

また、いくつかの適当なfacebookページをlikeしていました。これも偽物ではない、という効果を高めるための施策であろうと思われます。

名前のバリエーションは増えました。↑のリンク先でも、ほんとうに同姓同名の人から多量のリクエストが来ていたものですが、そういうことはまずなくなりました(数日たったらだいたい忘れているのでかぶっているかもしれませんが)。私見ではありますが、姓と名のかなり大きなリストを持ち、組み合わせているのだろうと思います。

ここ1ヶ月ほどの変化としては、
  • facebookページをlikeするなどの偽装はやめた
  • プロフィール写真に手を入れるのはやめて、男性のデフォルト画像をそのまま使う
  • プロフィール情報を見せないようにして、性別等はわからないようにした
といったところです。おそらく実際に試してみて効果に差がなかったこと、最後の件については「女性の名前だが性別は男性」といった情報も広まっていたし、目に止まりやすかったということがあるのだろうと思います。

もっとも、こういうのはいたちごっこですから、手口は次第に変化していきます。以上は現時点での特徴です。

偽アカウントの友だち申請を許可すると何が問題か

さてそんな偽アカウントですが、何を目的としているのでしょうか。

一説にはアカウント乗っ取りがあると言います。facebookでは友達3人が協力すればアカウントの復帰に必要な手続きが取れる仕組みがあるため、こういう偽アカウントの友だち申請を3回承認しまえば、ほかのメールアドレスに切り替えてパスワード再設定、という組み合わせによってアカウントを奪うことができるというものです。

真偽はさておき、この場合は偽アカウントの問題はけっこう緩和されるといってもいいでしょう。うっかり友達申請しちゃった!といってもすぐアウトなわけではなくて、スリーストライクまではアウトになりません。とはいえ、うっかり間違えたらきちんと解除をしたりしないと、あとあとで問題が残る危険性があります。

もう一つの問題はプロフィール情報の奪取です。

といっても、ようするに「友だちのみ」に見せている情報が筒抜けになってしまう、という話です。自分でfacebookに登録しておいた情報の話ではありますが、プロフィールにはメールアドレスや電話番号、skypeのidなど様々な情報を載せることができます。友達にだけ教えているつもりが、スパマーには筒抜けになってしまっている、ということです。また、友達にタグ付けされたことがあれば写真も閲覧できるでしょう。

さらにいうと、公開範囲を「友達の友達」に設定している場合、自分だけが注意しても効果は特になく、自分の友達の誰かがこういうミスをした場合に流出することになります(たとえば、住んでいる市の名前など、それほどの被害はないかもしれないけれども個人に関わり、一般公開していない情報は、わりとこういう公開範囲にしてたりするかもしれません)。

わたし個人としては、後者の問題のほうが本来の狙いなのではないか、と思っています。思っていますが、いずれにせよこういった2つの問題があるということです。

偽アカウントの問題について僕らは何をすべきか

当たり前の話ですが、見ず知らず、しかもプロフィールに何も書かれてなくてどこの誰かもわからないような人からの友だち申請は断るべきだ、ということです。これは当然の原則です。

しかし、そうは言っても何らかの事情でそういうことに気づかず、間違って承認してしまうということはあります。これはまあ、気をつけて生活をしていてもそういう季節になれば一定の確率で風邪をひく、というようなものです。注意するのは大事ですが、間違いは必ず起こるということです。

間違って行った承認は、直ちに解除するのも大事です。ほっとくと忘れてしまいがちですし、そうなれば偽アカウントが溜まってしまい、乗っ取られる危険性があるかもしれません。また、友だち申請とその受理がどれぐらいの頻度で行われているかにもよりますが、承認をしてから解除するまでの時間が短いほど、個人情報を抜き取られる確率も、量も、(理論的には)下がります。

個人情報について気を使う場合は、電話番号やメールアドレスなど知られたくない情報は入れておかない、といった自衛策もあるかもしれません。電話番号やメールアドレス入れるのは、けっこう便利な場合もあるんですけどね……。

また、「友達の友達」までという公開範囲にはあまり意味はなく、スパマーには筒抜けになっていると考えたほうが良いでしょう。

偽アカウントからの友だち申請については、申請を削除するのが基本ですが、同時にアカウントを報告したほうが良いのではないか、と個人的には思っています。アカウントの報告については「偽アカウントである」という項目があります。本当のところ、絶対確実に偽なのか、というとゼロとは言い切れないよな……と思っていたのですが、実際問題としてあまりにも似た手口のアカウントが多数あるのは確実なので、まあ偽物と言い切って良いと思っています。

facebookのスパム報告の仕組みはわかりませんが、複数の人間から報告があった場合、少なくともアカウントの確認のような手続きはあることだろうと思います。そして、スパマーにとってはきちんとコミュニケーションを取るよりは別な偽アカウントを作ったほうがコストが低いため、たぶんそのまま偽アカウントは停止・削除ということになります。

偶然の一致についてどうすればいいのか

以上の内容は偽アカウントはなんらかの業者が大量作成しているアカウントである、というところがポイントなのであり、実際のところ「なりすまし」かどうかというのはあまり関係はありません。

個人的には、意図的になりすましであることを狙っているわけではない、と思っています。多量の「日本人の姓にありそうな名前リスト」と「日本人女性にありそうな名前リスト」をランダムに組み合わせているのではないか、などと思っています(facebookのプロフィールから、そういう名前リストを取ってきている可能性はあるかも)。

なぜそう思うかというと、知り合いと同姓同名の偽アカウントから友達申請がきたな―、などと思っていたら、本人にも行っていた(笑)ということがわかったからです。なりすましを装うのであれば、少なくとも本人には行かないのではないでしょうか。

ただし、ランダム生成したものから「あれ、コイツfacebookはじめたのかな?」という勘違いが発生することを狙っているのだろう、とぼくは思っています。だから、まあ、なりすましといえばなりすましなのかもしれませんね。誰か一人が勘違いで友達申請を承認してしまうと「あいつが共通の友達なんだからこれは本物だ」という誤解が生じやすく、さらに問題は加速されることでしょう。

ぼくが問題に遭遇した場合、同姓同名の本物のほうとはすでに友達になっていました。なのでいちおう検索して友達として残っていることを確認できました。そうでない場合(しかもfacebookにアカウントを持っているかわからない場合)、確認は非常に困難であろうと思います。

でもまあその場合、いったん待ってみればいいんじゃないでしょうか。もしかしたらほんとうにfacebookのアカウントをつくりたてで、プロフィールが全然ないのかもしれません。でもそうだとすれば、数日もすれば少なくとも写真や、基本的な情報(性別など)は入ってくるはずです。何らかの投稿もするだろうし、なんらかの項目にはlikeしていくはずです。それを見れば本人かどうかの判断はつくでしょう。またもし、相手がそういうことをしない人であったとするならば、facebookのアカウントを作っては見たものの使う予定はないということなので、友達にならなかったとしても、とくになんの支障もないのではないでしょうか。

まあ、本当に気になるなら、別のチャネルから聞いてみれば良いと思いますけどね。メールとか、twitterのDMとか。

それにしても現状はどうにかならないのか

にしたって、現状がわかったところでうんざりさせられるところは変わりません。どうにかならんものでしょうか。

これってスパムメールと一緒だなーとつくづく思ったのは、善意によって成り立っているところに少数の不正利用によって問題が生じているということです(そういえばブルース・シュナイアーの Liars and outliers も似たようなテーマだったな)。あまりにもスパムが過剰になれば、みんなうんざりして使うのをやめたりして、結局スパマーには利益がないのですが、短期的には効果のある戦略だということです。

個人個人で注意しましょう、というのは大事なんですが、根本的な解決策とも言いがたいものがあります。

どうしたものか、どうにかなってくれるとありがたい、のですが、妙案があるわけでもなく、ぐちでおしまいなんですが、どうにかならんものですかねえ。

2013-07-25

『Team Geek』が面白い


Team Geek ―Googleのギークたちはいかにしてチームを作るのか

さっそく『Team Geek』読みました。200ページ程度と分量が多くなく、わりと気楽にさっくり読めます。しかしこれは面白い。

ソフトウェア開発のチームやプロジェクトなどの運営にかかわるもろもろのエッセイ集、みたいなノリの本。内容はコーディングや実際の開発の細部には立ち入らず、むしろエンジニア同士の(あるいはエンジニアとエンドユーザの)関係のような「人間」にフォーカスを当てている。

いわく、ソフトウェア開発というのはチームプレイである。孤高の天才がひとりで作るようなモンじゃない。ユーザ=自分みたいなソフトウェアなら別だけれど、世間に広く使われるようなものというのは、一人で作るということはほぼないんじゃないかと思う。だから、個人個人の技量(技術力)とべつに、チームプレイをどうこなすか、という視点がないとうまくまわらないよね、というのが基本的な立脚点になる。

そこで、基本的な原理として、謙虚(Humility)、尊敬(Respect)、信頼(Trust)のみっつ(頭文字を集めてHRTと書き、ハートと読むらしい)が提案され、この原理にもとづいていろんなテーマが語られる。チームの文化について。いいリーダーとだめなリーダーの違い。だめな人をどう排除するか。などなど。

それぞれのテーマについて、ベストプラクティスがあったり、失敗事例が紹介されたりする。著者はGoogleでエンジニアをしているが、いろんな会社も渡り歩いており、また同時にSubversionの作者でもあり、Apache Foundationとも関わりがあるため、オープンソースコミュニティと社内のエンジニアリングチームの双方について、共通して言えるような部分をくくりだし、解説している。これがいちいち面白い。

読んでいるあいだの印象としては、高林さんがWEB+DB PRESSに書いていた連載のうちコーディングのテイストが薄いもの(プログラミングの光景 プログラマについてとか、バッドシグナル通信 チキンレースとか)とちょっと近いかなと思う。ただ、高林さんの文章はそれぞれが独立して読めるエッセイだったのに対して、この本はきちんとテーマ設定をして、構成を練ってあるといった違いがある。

……ところで、artonさんは本書をして「悪の教典」だと書いたけど、どうしてそう読めるのかよくわからないなあ。いや、すっとぼけないで書くと、本当はちょっとわかる。どういうことかというと……

本書の基本的な価値観は、謙虚・尊敬・信頼の HRT がけっきょく大事なんだ、ってこと。自分が一番デキるし頭もいい、とかいうことを内心そう思っていたとしてもそういう態度を取るべきではない、ということになっている。

でも、なぜそうなのか、というところに善であるとか、正義であるとか、そういう価値観や道徳を持ち出さないのだよね。著者の表現はエゴイスティックで、けっきょく自分が一番生産的であるためには、とか、チームがへんなことにならずにちゃんと進むためには、とか、そういう自己の目的達成のための道が、実は HRT なのだ、ということになっている。そのためには、ほんとうは俺が一番アタマいいと思っていても謙虚な態度を取るほうが有益であり合理的だ、ということになる。

HRT を目指すのはそれが善であったり正義であったりするからではないし、そうである必要もない。ほんとうはとても邪悪な人間でも、仕事を進めるためには HRT を実践しよう、という論調になるわけ。そういうふうにとると、まあ邪悪であるのかもしれない。

でもぼくはあんまりそうは思わない。行動心理学的には、内心がどうであるかなんてのはどーでもいいのだ。ふだんの人間がどういう人であっても、一緒に仕事をするときに謙虚であり、仲間を尊敬しているような態度であり、他人を信頼するような言動をしているのであれば、その人は HRT フルな人だ、といっていいのだし、それがきちんと維持できるのであれば、それはナイスなんじゃないかな、と思う。

そして、HRTを主軸にもってきたのは、やっぱり著者の価値判断だろうとぼくは思う。2章では、チームには文化がある、という。そしてHRTをきちんと実践して、変な文化が根付かないようにし、ナイスなチームを構成して物事を進めていこう、という論調になっている。

でもぼくらは、そういう「ナイスなチーム」だけが全てじゃないってことを知っている。Linuxカーネルのコミュニティは、よくリーナスの暴言が話題になっている。リーナスは露悪的に「ダークサイドに来い」とか言ったりするし、彼は暴言を吐くことによって変な奴の蔓延を防いでいる、といったことは真剣に考えているのではないかと思う。それでもLinuxカーネルコミュニティは(たまにトラブルがあるみたいだけど)きちんと回っているし、あれはひとつの文化かなと思う。

文化というのは相対的なものだから、チームの文化をどうするかという選択は当然、チームの構成員に委ねられるわけだし、HRTフルである必然性はない。この手法がベストだという合理的な理由もない。

でも、じゃあ、なんで、著者がその主軸にHRTを選んだのかというと、けっきょくそういうコミュニティがいちばんいいのだ、と思っているからだろう。ただ、その結果を得るにあたって、かならずしも全員に同じ価値観を共有してもらう必要はない。ちゃんとしたエンジニアは合理的なので、合理的に考えてHRTが現在のシチュエーションではベストだ、と判断するだろうし、それによってナイスな組織が達成されるだろう、と考えているのではないだろうか。

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もうひとつの本書のたのしみは、オープンソースコミュニティ運営に関するものだ。会社とちがって誰でもメーリングリストに参加できるから、オープンソース界隈にはそういう文化衝突というかよくわからない摩擦がしょっちゅう起きている。そういう問題をきちんと取り扱った本というのはぼくはあまり読んだことがなかったし、自分もオープンソースのコードをちょびっと書いたことぐらいはあるから、たいへん面白かった。

おすすめです。

2013-07-22

メカが嫌いな男子なんていません!『パシフィック・リム』

To fight monsters, we created monsters
パシフィック・リム』、最高でした。(日本語版公式サイト

ええっとなんていうか、ここで「最高」という場合、ストーリーの良し悪しというのは、問いません。でもなんというかこう、ああーこういうシーンが撮りたかったんだろうなというか、こういうシーンが好きなんだろうなというか、そういうシーンがてんこ盛りの2時間であります。っていうか、ほぼそれしかない。

太平洋の海底のどこかから突如として怪獣たちが出現しはじめ、それが kaiju (カイジュウ)と呼ばれるようになり、人類は総力を結集して巨大人型ロボット、イェーガーを作り出して怪獣に対抗することになった。マスタースレーブ方式で操作するのだが、単独で操縦するのは脳に対する負荷がかかりすぎるため、二人一組となって一体のイェーガーを操作する……といった基本的な設定の紹介は、開始5分ほどでナレーションで紹介されておしまい。あとはまあ、基本的にはイェーガーとカイジュウたちとの戦闘また戦闘、たまに設定紹介、そして戦闘、といったノリであります。

そういうわけで、見どころはやはりタンカーを手にカイジュウをぶん殴るシーンであったり、「まだ方法は残ってる!」で剣を抜いたり、そんなかんじだと思うわけです(しかもこのソードがまた、いわゆる蛇腹剣なんですよ。鞭状態では武器にしないけど)。でも剣もってたら最初からそれ使えよタンカーとかじゃなくてさ……いやいやいや。そういうことではない。たぶん。

じっさい、ストーリーとか設定とかのアラはいろいろある気がするんですよ。電力を止めるカイジュウが最強すぎじゃないかとか、いくら核エネルギーベースだからって主人公機も内部駆動は電力だし出撃できないだろ、っていうかハンドシェイクは基地の設備でやるじゃん、とかなんとか。どうでもいいけど、中国製イェーガーとかロシア製イェーガーが思わせぶりに登場したわりにまったく活躍しなさすぎて残念とか。棒術で訓練するのってそんなに意味あんのかとか(まあタンカーの伏線だと思いますけど)。

そういえば、中国機(クリムゾン・タイフーンというらしい)が機敏で4本腕のトリックスター系なのに対してロシア製(チェルノ・アルファ)が鈍重だが分厚い装甲による高い防護力、みたいなステレオタイプイメージはどうしてそうなのかよくわからんけど面白いなーとか。

ま、よかれあしかれ、そーゆー映画であります。ウィキペディアのページから批評をいくつか拾い読みすると、心理描写が弱いといった批評があるようですが、そういうことを言う奴はなにもわかっちゃいない。そもそもそんなものを期待してこんな映画見に行くやついない。誰もがなんかすごいメカが怪獣と戦うシーンを見に行くわけで、その期待は確実に満たされるといっていいと思います。むしろそれ以外は何も期待をするなと言いたい。精緻なSF設定ではないので、心理描写以外にもヘンなところはいっぱいあると思いますが(そういえばイェーガーって格納時にはそのまま保管されてるのになんで出撃時にだけわざわざ頭部をパイルダーオンするんだろ?とかそういう)、まあそれも味わいというやつです。

そういえばヒロイン役の菊地凛子の回想シーンでの日本のシーンがちょっと微妙にヘンだった(笑)。わざとやってるのかあれは、「萌&健太ビデオ」とか(町山智浩さんもツイートしてた。やっぱみんな気づくよな)。ナンバープレートも日本のじゃなかったしなー。

ところで、タイトルは元ネタと語調をあわせるために「メカ」としましたが、デル・トロ的にはやっぱり怪獣映画ということなんだと思います。BGMもカイジュウ登場シーンにはなんか怪獣映画っぽいテイストのが使われていたし、スタッフロールの最後でも、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎へ献辞が捧げられていました。

というわけで、いまさら言うことでもないですが、この手の映画好きはマスト見るべしですよ!

さっそく Play Store All Access で入手したサントラを聴きながら。

2013-06-20

アメリカの免許が届かなかった話

かなり前に解決済みのことなのですが、記録のために書いておきます。アメリカで運転免許を取得した場合、郵送されるのですが、なぜか届かないことがあり、その場合はアクションを起こさないといつまで経っても届かない、という話。

さて、アメリカで運転免許を取得する場合は、日本と同じように筆記試験と実技試験を受けることになります(教習所の合格で実技試験をパスする制度、みたいのはないのだと思います)。で、実技試験に合格した場合、おめでとう、といってその場で渡されるのは temporary license という紙っぺら一枚だけ。ようするに仮の免許証というやつでして、本物は後日、郵送されることになっています。だいたい、合格してから平均して2週間程度で届くようです。仮の免許の有効期限は3ヶ月くらいあるので通常は問題ありません。よね?

私は昨年末、11月ぐらいに実技試験にようやく合格したと思います。ところが年末になっても届かない。おかしいなーと思って、免許を取得したDMV(交通局)に行って「まだ来ないんだけど調べてくれないか」と問い合わせたのですが、あーはいはい、みたいな雑な反応で期間の延長された仮免許が再発行されるしまつ。うーん、そういうものだろうか?

おかしいなあと思っていたのですが、その後、似たような時期に渡米した同僚にも同じ問題が発生していることがわかり、そっちのほうで調べてもらってようやく判明したのですが、届かない、というのは比較的よくある状況なのだそうです。検索するといろんなQ&Aフォーラムも出てきますし、スタンフォードの学生向けのサイトにも載ってますし、サンフランシスコ領事館のFAQにも載っています。

それらの情報や、わたしがその後DMVの人から聞いた情報を総合すると、どうもこんな感じのようです。外国人などが免許を取得しようとした場合、合格の情報はいったんDMVの本部(州都であるサクラメント市にあります)に集められ、そこの法務によって、合格者の現況が調べられます。たとえば合法的に滞在しているかどうかとか。

ところが、なぜかその時点で書類に不備があることがあり、すると滞在状況の調査ができず、そこで手続きが完全にストップしてしまいます。そうなったということはこちらには全く知らされず、単純に確認手続きは何ヶ月でもそこで止まったまま先に進まない、ということのようです。なので、待っていても何も起こりません。何もしなくても1年後には届いた、という話もあるので、いずれは何かが起こるのかもしれませんが……。

また、各地にあるDMVの普通の受付の人は、こういう事情を知らなかったりするようです。調べてくれ、と言っても調査をしない人もいます(ぼくが最初に問い合わせた人もそういうのだったと思う)。そういう人の場合、単に仮免許を再発行しておしまい。でも、データベースを照会して、ビザとかが足りないみたいだね、と教えてくれる人もいます。ほんと人によってマチマチ。

そういう事情であるので、やるべきことはDMVのサクラメント本部の法務部に電話をかけ、事情を説明することです。するとたいてい、ビザとパスポートのコピーが必要だからファックスしてくれ、と言われます。なのでファックスするわけですが、できればさらにメールアドレスをききだして(メールアドレス自体はDMVのなかのページにも一応ありますね。loddlidsp@dmv.ca.gov)、スキャンした電子データをメールでも送信したほうが良いでしょう。で、メールを送ると基本的には翌営業日には返事が返ってくるので、それで手続きの完了がわかって、それから2週間ほどするとようやく届きます。

僕の場合、この電話でのクレームが不慣れで、1回めの電話では「とにかくあと2週間待て」と言われ、2回めの電話ではファックスを送ったが2週間してもなしのつぶてで、3回めの電話でファックスとメールを両方送って、それでようやく届きました。けっきょくいろいろもたもたしたこともあり、免許が届いたのは3月ぐらいだったかと思います。仮免許の有効期間は2回延長しました。

このステータスに陥るかどうかというのはどうも運みたいなもののような気がするので、祈るしかありません(なんの不都合もなく普通に免許が届いた人もいっぱいいます)。個人的には、DMVの職員の一部がダメな人たちで、ビザなどの書類が必要であることを理解しておらず、本部に送ってないとかそういうことだろうと思ってます。まあそれがわかったところで手のうちようはなにもありません。

それにしても、こういう場面でアメリカの役所の事務処理能力の低さを見ると、日本の役所ってのは優秀だったんだなーとつくづく感心するのでした。