2012-09-28

Ernst Cline "Ready Player One"

嫌いになれない。

ギーク小説、というジャンルがあると思う。ギークな作家が、自らの体験を交えて書くようなタイプの作品だ。具体的な作品名やキャラクター名や設定が飛び交い、そこにどっぷりと「浸かっている」ような読者を喜ばせて、身悶えさせる。そういう意匠に凝りに凝った作品、っていうのが確かにある。
たとえば、秋口ぎぐるの『ひと夏の経験値』は、90年代にテーブルトークRPGをやっていた中高生というごく狭い人々にとってはただ事ではない迫真さがある。そういう狭い層にはいかんともしがたいというものがある、というタイプの小説というのは、たしかにある。

本書 "Ready Player One" も、そういう「ギーク小説」のひとつで、80年代アメリカのデジタルゲーム・アニメ・ゲーム・まんが・ポップカルチャーに強く依拠している。僕よりも少し年上の世代がストライクなのかな。いずれにせよアメリカの本なので、日本人にはそこまで強くは訴求しないかもしれないけれども、そういう道具立てがすごい。

21世紀のなかごろ、稀代のゲームデザイナーとうたわれたジェームズ・ハリデイがとある遺言のビデオレターを残す。ハリデイはもともと重度のおたくで、優れたゲームセンスを持ち、友達とゲーム会社を立ち上げて大成功する。だが21世紀初頭になって、MMORPGとSNSをくっつけたようなOASISというシステムを構築し、これまた大成功。この作品の時代には、このOASISというのがインターネットと同義になっていて社会インフラと化しており、なおかつそれが娯楽でもある、みたいな状態になっている。

ハリデイは自らの莫大な富を、このOASISのどこかに隠したのだという。それがビデオレターの遺言の内容だった。天涯孤独だった彼には肉親はおらず、富は宙に浮いている。ハリデイが隠した秘密を解き明かし、ゴールまでたどり着いたものがこの富を得ることができる。ヒントはないが、ハリデイの愛した80年代ゲーム・ポップカルチャーが強いモチーフになっていることが暗示されている。

これが発表されてからさあ大変、誰も彼も、猫も杓子も大企業も、この「イースターエッグ」を探し求める旅に出た。だがなかなか見つからない。手がかり一つとっても誰もわからない。人々はハリデイの嗜好から問題傾向を推測しようと、80年代ポップカルチャーの研究を深め、そういったファッションが大流行していく。だが、それでも見つからないまま5年が経過。人々の興味も薄れかけてきたそのころに、ついに変化がおとずれる。無名のハンターの名前が、突然スコアボードに躍り出たのだ。それが主人公である「ぼく」のことなのだが……。

どう思いますか、この筋立て。

似たようなことを思う人もそれなりにいると思うので、はっきり言わせてもらうと、こういうセカンドライフみたいなSNSが世界を席巻するみたいな世界観には、ぶっちゃけて言えばうんざりする。しかもこの本は刊行が2012年。2012年に出た本とは思えないほど、この小説内のサイバーカルチャーは時代錯誤感にあふれている。3DCGのSNSもそうだし、リアルライフとヴァーチャルライフの単純な二分もそうだ。いくらなんでもこれはないんではないか……などと思うのはもしかすると僕がMMORPGなどの文化に親しみがないからであって、スカイリムとかをやっている人にはこういうのもリアリティがあるのかもしれない。が、ともあれぼく個人の感想を正直に言うと、特に序盤は投げそうになるほど、この辺の感覚の齟齬が大きく、読んでいてキツいものがあった。

そもそもなぜ、SF作家は3DCGバーチャルリアリティがそんなに好きなんだろ? むしろ今となってしまうと、こういう世界にはリアリティを感じなくなってしまった。個人的には、3DCGのバーチャルリアリティ空間が採用されるのは、小説が書きやすいからだろうと理解している。チャットや掲示板だけで描写すると、あまりにも前衛的な文学になってしまう。大衆娯楽文化としては、会話の途中の細かい描写を描かないと読みづらくなってしまうし、そうするには手っ取り早いのは3Dにしてしまうことだ。そうすれば、目線を逸らしたり、身じろぎをしたり、そういった何気ない、言外のジェスチャーを描写できる。この本がそうなのも、案外とそういった理由だったりするのかも。

ともあれそういうわけで、ベースラインとなる設定は個人的にはかなりキツい。だが、娯楽小説としては普通によく書けており、読みやすいし、さらさらと読むぶんには特に問題を感じない。そんでもってむしろ、本書の核心はむしろポップカルチャーやゲーム・おたく文化の部分にある気がするので、ここにあまりこだわっても仕方ないのかもしれない。SFファンというのは基本的に設定にうるさいので、気にしてしまうわけだが……。

だが、そういう「きつさ」を乗り越えて読み進めると、やっぱりどうしても、嫌いになれない自分に気づく。なかに登場するゲームなどのネタの大半は、厳密にはよくわからんのだけれども、肌感覚でちょっとわかる。そしてその「わかっている感じ」というのはたまらない楽しさではあり、それこそが「ギーク小説」の(ギークにとっての)楽しみではあるわけだ。たまに登場する日本文化のネタはときどき微妙に間違っており(ウルトラマンの身長が156フィートだとか……アメリカではそういう設定なのだろうか?)、そういう感じでニヤニヤしたりする楽しみもある。それにまた、クライマックスの戦いで主人公がレオパルドン(東映スパイダーマンのやつ)に乗り込んで、「チェンジ・マーベラー!」とかやってから出撃してメカゴジラと戦う、みたいなところではやっぱり日本人のおたくとしては気分はそれなりに盛り上がり、「やっぱ嫌いにはなれないよなあ」としみじみしてしまうのだ。

つまるところ、この本は「ギーク小説」としてよく書けている。ギーク小説は、もちろん普通の小説として読んで楽しむこともできるけれども、中に散りばめられたギークネタを拾って楽しむというのがやっぱり楽しい、というタイプの小説だ。ぼくもそういう小説は好きなのだ。だから、どうにもこういう話は否定しにくいものがある。

まあ、苦労して読むほどの価値はないけれども、まんがいち訳されることがあったら読んでみたらいいんじゃないかと思います。