2014-09-09

笹原宏之『訓読みのはなし』。おもしろいんだが、疑問はつのる



読みのはなし 漢字文化と日本語 (角川ソフィア文庫)

なんとなく漢字の本をよもう、と『訓読みのはなし』。中国でうまれた漢字が日本にやってきて、日本なりのよみかたである訓読みを発展させていったわけだけれども、そのありかたにはものすごくたくさんのバリエーションがあるわけで、その多岐にわたるいろんな訓読みのありかたを、いろいろ説明した本。

この本のユニークなところがあるとすれば、韓国語(朝鮮語)やベトナム語などにおける漢字利用のありかたもあわせて参照しつつはなしをすすめているところで、これが本全体におくゆきをあたえている。

ただ難点をいうと、まとまりがない。

こういうはなしがある、ああいうことがある、こういう場合にはこうよむが、こうならこうだ、ナントカ地方にはこれこれこういう地名がある、こんなめずらしい苗字もある、というのが、ごちゃっとならんでいる。そんな印象。

また本のなかでは相互参照もおおいのだが、訓読みがきわめて複雑であり、ひとつの現象をさまざまな側面からみることができるからだ、ともいえるが、たんに内容が整理されていないだけなのかもしれないというきもする。というか整理のしかたがちがうのかも、とおもう。たとえば、地名や人名は、またべつに説明したほうがよかったんじゃないかな。

そして、著者がいわんとしていることも、いまひとつわからなかった。漢字やその訓読みの文化をかたることで、おくぶかいなあ、おもむきぶかいなあ、とあじわう、ということなのだろうか?

たしかに、かかれている個別の事例はそれぞれになかなかおもしろく、トリビアをおしえてもらうような、そういうたのしさはある。

が、よんでいてぼくが個人的にかんじたのはむしろ、ここまでメンドくさいことをするぐらいなら、漢字なんてやめちまえばよかったのに、ということである。この本にかいてあることによると、微妙な事例もあるにはあるが、韓国語でもベトナム語でも、漢字にたいしておなじ意味の現地語のよみをあてるという「訓読み」の事例はない、もしくはきわめて限定的だ、ということだそうである。だがなぜか漢字文化圏のなかでも日本語だけは訓読みを発達させており、これがいまでもつづいている。なお、過去には韓国語でも訓読みがあったらしいんだが、きえたらしい。

きえた、というと文化の断絶のようにもきこえるが、これを追放に成功した、といえば、むしろいいことのようにおもえる。日本語からも訓読みを追放してしまえばいいんではないか、ともおもう(もちろん国語学者とか研究者はおおいに知識をたくわえてくれればいいし、過去の文献をしらべるには、そういう知識は必要なんだけど、一般人の言語使用は、それと関係がない)。

たとえば、「はかる」とよめる漢字は130個以上あるんだって。「生」のよみかたも3ケタあるんだって。そういうのをよんで、日本語ってすごいなあ、とかおもうんだろうか。アホらしいな、近代化したときに追放しておくべきだったな、というのが忌憚ないぼくの感想なのですが。

もちろん、訓読みがなくなったからとっても、音読みにも漢音や呉音など複数の音がでてくるし、日本語には重箱読みや湯桶読みのようなヤヤコシイものがいっぱいあって、さらにいえば、音読みなのか訓読みなのか慣用的なあて字なのか意味不明なのかわからないようなものもいっぱいあるようで、はなしはそう単純でもない。

となれば、ぜんぶひらがなでええやん、というきもしていて、たぶん、なれればそれでも大丈夫だとおもう。ぼくはそこまでエクストリームには、ならないとおもうけど。

実はこの感想も、ぜんぶひらがなでかこうかなとちょっとおもったんだけど、そうするときっと読者が激減するだろうな、とおもったので、ひとまずあきらかな訓読みを追放してみた(本のタイトルになっているため「訓読み」だけはのこしているが)。いかがですか? わりとイケないこともない、ような気もするんだけど。